安藤祐介『退職クロスロード』レビュー 3月31日、人生は思わぬところで交錯するーー働くすべての人に贈る、失った「情熱」を取り戻すための物語 内田 剛(ブックジャーナリスト)
書評
2026.02.12
この作品は社会を、時代を、自分を映す鏡でもある。リーダビリティ抜群で、すべての会社員(=いま働いている人、これまで働いたことがある人、これから働く人)必読の物語だ。冒頭には慌ただしい入社式前日の人間模様が描かれている。運命を左右する人事異動によって、栄転に左遷、転勤に帰任が決まる。そう、多くの会社の年度替りである3月31日は思いもよらない人生の転機でもあった。
著者は、これまでさまざまな「仕事」に関わる、名もなき人たちに寄り添う物語を描き続けている安藤祐介だ。ご本人の職業体験も存分に発揮されたリアリティに基づく説得力は「さすが」の一語。もはや職人芸というべき細やかな「観察眼」にただ唸るばかりだった。
舞台は東京都心の総合メーカー本社ビル。清掃員の守田が、早朝から年度末の業務に忙殺されているシーンから始まる。その日で定年を迎える白髪の部長・佐和山に突然朝食に誘われた守田は、5年前、自分が無自覚に彼の命を救っていた「恩人」であったことを知る。思いもよらない運命の交錯。かつて凄腕営業マンだった佐和山は、定年後に清掃会社を興すと語り、日頃から地道に働いていた守田をスカウトするのだ。
年功序列、終身雇用が当たり前だった頃、エリートだった佐和山はいったいどんな社員だったのか。なぜ定年後に新たな道を選んだのか。部下や同期など、関わった仲間たちの視点で知られざる彼の実像が明らかにされ、5年前に起きた「ある事件」の顛末が浮き彫りにされる。この展開はミステリー作品のようで、ページをめくる指が止まらなくなる。
数多の職業の中でも守田のような「清掃員」に目を向けた点に注目したい。作業服に身を包んだ陰の仕事の象徴であるが、快適な生活をするためになくてはならない存在なのである。まだ男女雇用機会均等法も浸透していなかった頃のこと。大学時代の4年間、僕はほぼ毎日ビル掃除のバイトをしており、都心のオフィスの現場を転々としていた。デスクそれぞれに灰皿が置いてあり、電話も鳴り響き、女性社員がお茶くみ当番だった時代だ。同じ会社であってもフロアごとに違う空気感や、どことなく微妙な距離の人間模様も垣間見られた。この世にはいろんな会社があり、部署があって、人もいる。吐き出されたゴミから季節や景気なども体感できるそこは、学校の授業以上に密度の濃い社会経験の現場であった。
「ブラック企業」は本当に暗黒なのだろうか。たった一つしかない真実。それを決めるのは自分自身だ。他人の評価に惑わされることなく、己の力で探り当てて判断する。誰かにとっては「ブラック」かもしれないが、自分にとっては「バラ色」かもしれない。その色を決めるのは自分の意志、ということだ。とかくこの世は生きづらい。過剰なハラスメントにコンプライアンスの呪縛。歪んだ正義を振りかざす理不尽な社会の中で、真っすぐに仕事を見つめるこの物語は、仕事の極意を知ることができるテキストにもなれば、後悔しない人生のためのバイブルにもなる。
昭和歌謡や文化のムーブメント、電子書籍よりも紙の本、デジタルよりもアナログが新たに見直されている風潮は、一過性のものとは思えない。人間性を排除してきた時代の揺り戻しで、体温や湿度といった生身の人間の営みを感じさせる要素が、もっと再評価されていくだろう。
高度経済成長の昭和から平成、令和の時代へと働く人たちを取り巻く環境は激変している。過労死や働き方改革といった労働問題もあるが、ネットの急激な普及はもちろん、コロナ禍によるリモートワークの推進も大きな変化だ。人と会わなくても仕事ができ、まさか退職代行会社が流行る時代になろうとは、まったく予想ができなかった。
便利になり過ぎたいま、本当の幸せはどこにいってしまったのか。多くの変化を体験してきたなかで、経験や知識、技能など享受したものがあれば、逆に奪われたものもある。それが、誰かを想う「愛」、人肌の「温もり」、真っ当に生きる「心意気」、突き抜ける「情熱」なのだ。本書はもちろん安藤作品には、それらの要素が凝縮されている。フェイクが蔓延る現代社会だからこそ、真の心の交流を描いた物語が絶対的に必要で、それをリアルに再現できる安藤祐介は、いま最も信頼のおける作家であるといえよう。
何ごとにも光があれば影もある。たとえどんなに地味な仕事であっても、きっと誰かが見ていてくれる。佐和山が守田の仕事ぶりを密かに見守って評価したように、生きるとは、大切な誰かを見守ること。そして誰かに見守られることなのかもしれない。ストレスの大部分は人間関係に原因があるというが、人は孤独であってもけっして一人では生きていけない。志を同じくする者たちによる、かけがえのない絆によって生かされるのだ。本書の随所からコスパやタイパでは測れない大切なことが伝わってくる。読み終えてこの時代が失ってしまった忘れ物を探しあてたような幸せな気分になった。この素敵な作品との縁に感謝しよう。