J_novel+ 実業之日本社の文芸webマガジン

1月の新刊『バスを待つ男』刊行に寄せて
小さな謎を解き明かす東京バス・ミステリー 西村 健

share

twitterでシェアする facebookでシェアする

「西村さん、そんなに電車が好きなんだから一つ、トラベルミステリー書いて下さいよ」

編集者から水を向けられた。心が動かなかった、と言えば嘘になる。しかし時刻表を駆使したアリバイトリックや旅先で起こる殺人事件など、列車旅をメインに据えたミステリーはこれまで無数に書かれて来ている。大御所の手になる歴史的名作がキラ星のごとく残されており、今さら自分が入り込む余地などあるまい。おこがましい、との思いが湧いた。

そこで提案した。

実は私はちょっと時間が空くと、路線バスに飛び乗ってあちこちウロウロするのを趣味としている。都バス一日乗車券が五百円という良心的な値段設定であり、これだけの安さで丸々一日、楽しめてしまうのだから堪らない。

どこへ行く、と明確に決めて出発するわけではない。ただ、来たバスに乗って終点まで行ってみる。そこからまた、次の路線に乗り換える。繰り返しているうち最早、自分がどこにいるのかも定かではなくなる。俺はいったい今、どこをどう走っているのだろう。最終的にどこに運ばれて行くのだろう。全く分からない。全てはバス任せ。それがいい。

車窓から眺める町の日常もいい。東京二十三区には九百何十万の人が住んでいるのだ。暮らしもそれぞれ、九百何十万通りある筈だろう。私が個々を具体的に知らず、また知るわけもないというだけで。その最中に分け入って行くのである。

歩道には買い物袋をぶら提げて、家路を急ぐお母さん。子供を抱っこして歩いているお父さんもいる。あれは幼稚園に迎えに行った帰りかしら? しかしこんな時間に会社に行っていないということは、自営業の人なのかなぁ。生活の断片を覗き見ながら、勝手に想像を膨らませる。おやおやあの店は凄い人だかりだなぁ。安売りセールでもやっているのかも知れないぞ……

路線バスは基本的に、地元住人の生活の足である。日々の暮らしのために乗るものである。楽しみのため、なんかで乗っているのは私一人。町にとって単なる部外者であり、傍観者に過ぎない。地元の日常に紛れ込んだ異邦人。その立場がまた、いい。

最終的には辿り着いた終点で、適当な居酒屋の暖簾を潜る。あぁ、今日もいい旅ができた。一日に感謝して、自分に乾杯する。喉を流れ落ちていくビールの美味いこと!! これだけ安上がりで、満足できる趣味もそうはないと自負している。

だからどうせトラベルミステリーなら、列車ではなく路線バスで私のような小さな旅を楽しんでいる主人公としてはどうか、と編集者に提案した。主人公は、そう。定年退職した元刑事。東京都シルバーパスを使い、当てもなくバスに乗って時間を潰している。都内の色々な町に行き着く。そこでふと、小さな謎に出会う。彼は元刑事だから観察眼が鋭く、ちょっとした異変にも直ぐ気づいてしまうのだ。

ただ謎を解くのは奥さんということにしよう。彼が家に持って帰って来た謎を、話を聞いただけでズバリ読み解く。鋭い推理力で立ち処に解決してしまう、ミス・マープルのような安楽椅子探偵(アームチェアディテクティブ)だ。こうして次々、アイディアが浮かんでいった。編集者もそれは面白そうだと賛成してくれた。

舞台となる町も浅草や六本木のような誰でも知っているところではなく、王子や赤羽といった普通は部外者はあまり行かないような場所にした。その方が住民の日常が息づく。暮らしに基づいたリアルな物語になると思ったからだ。

実際に、改めてそれらの町にも行ってみた。主人公と同様、路線バスで。そうすることによってまたイメージが膨らみ、アイディアが浮かんでくれた。この町の謎は、こんな風にした方が似合いそうだな……。その場の空気を吸ったからこそ、ニュアンスが掴める。編集者と共に都バス最長路線に乗り、青梅まで行ったりもした。全ては楽しい思い出である。

こうして書き上げたのが、この連作短編集です。実際にその地へ行ってみた、様々な思い出が詰まっています。また足を運んだからこそ分かる、町の雰囲気を出すべく努めてみました。書き手の思いとしてはそうなのですが、空回りの結果に終わっていないことを今は祈るばかりです。

東京の片隅に生じた小さな謎を解き明かす、一風変わったトラベルミステリーをどうぞお楽しみ下さい。

※本エッセイは月刊ジェイ・ノベル2017年2月号掲載記事を転載したものです。

関連作品