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6月の文庫新刊『ぱりぱり』刊行に寄せて
世界一おいしい納豆の食べかた

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スーパーのレジには長蛇の列ができていた。

六つあるレジには、向かって左から順に、一から六の数字が振られている。一番と三番と六番だけ店員がいて、残り三つは動いていない。せめてあとひとつくらい開けてほしいと毎週思うのだけれど、日曜の朝九時過ぎなら珍しいことではない。でもいつもは、それぞれの列で待っているのは二、三人ほどで、会計をすませるまでに十分もかからない。

それがなぜか、二、三十人に増えているのだった。まっすぐ並ぶにはスペースが足りず、くねくねと折り返してレジの前をみっしりと埋めている。

あっけにとられつつ、ふだんと同じように左端の一番に並んだ。
「ひどいわね、これは」

すぐ前にいた、五十歳くらいのおばさんがこちらを振り向いた。まんまるい顔とつやつや赤いほっぺたが、アンパンマンに似ている。「サッカーって人気があるのねえ」

そこでやっと、ワールドカップというものの存在を思い出した。そういわれてみれば、列に並んでいる人々の服装がなんだか青っぽい。わたしのすぐ後ろにカートをつけた、幼稚園くらいの娘と両親の三人家族も、おそろいのTシャツを着ている。
「十時にまにあうかなぁ。息子にビールのつまみがほしいって頼まれてるんだけど」

わたしはあいまいに微笑んで、首をかしげた。去年引っ越してきてからここには数えきれないほど足を運んでいるが、話しかけられるのははじめてだった。
「あら、大根? わたしも買っちゃった。葉っぱがついてるのって珍しいもんね」

おばさんがひょいと首を伸ばし、わたしのかごをのぞきこむ。バナナやら缶ビールやらするめいかやらヨーグルトやら、自炊の習慣がありませんと言わんばかりの貧弱な中身が恥ずかしくて、わたしはさりげなくかごを体に引き寄せた。
「ちゃんと納豆も買った?」「はい」

質問の意図を考えるより先に、正直に答えていた。おばさんは満足そうにうなずいて、わたしにたずねた。「納豆の世界一おいしい食べかた、知ってる?」

知らない。聞いたこともない。
「大根は千切り。なるべく細く。納豆は三十分前には冷蔵庫から出して室温に戻してね」

おばさんは熱っぽく説明した。「それでね、ひたすらかきまぜるの。ねばっねばに泡だつまで、よおおおおくまぜないとだめなのよ」

きまじめな顔で、念を押す。肩越しに、ぱんぱんに食材が詰めこまれたかごが見えた。大根、合挽肉、冷凍ピザ、牛乳、しょうゆ、ポテトチップス、キャベツ、卵、カレールー。

短篇を書くのは、少なくともわたしにとっては、他人の買物かごをのぞくことにちょっと似ている。見知らぬ誰かの長い長い人生を、ほんの一瞬だけ目撃する。そして運がよければ、そのひとが世界一おいしい納豆の食べかたを教えてくれたりもするのだ。
「あ、二番が開いた」ぼんやりしているわたしを置いて、おばさんはすばやくカートを押して隣のレジへと突進していった。他にも新しいレジの開通をねらっていたひとは多く、あっというまにわたしたちは何台ものカートと人に隔てられてしまった。

一番に残ったのは失敗だった。最初はここを担当していた、わたしの知る限りこのスーパーで最もレジ打ちの速いお姉さんは、すぐに交代して二番に行ってしまったし、ふたつ前のおじいさんが小銭をばらまいて大混乱が起きた。

いつになったら店を出られるのかやや不安にはなってきたものの、たいくつはしなかった。どちらに顔を向けても、トマトやらからあげやら食パンやらいわしやらの入った、カラフルなかごが目に入る。仕事のできるお姉さん、手もとのおぼつかないおじいさん、野菜売場から大根を抱えて駆け戻ってきた後ろの幼いひとり娘、みんなそれぞれ名前があり家族がいる。ひとりひとりの前と後ろに、昨日までと明日からの人生が続いている。

たとえばあのおばさんが、わたしが小説を書いていると知る機会はない。たぶん、一生。それでもわたしは、よおおおおく、と伸ばしたおばさんの力強い声音を覚えている。これからも納豆と大根は一緒に買うだろう。

そういう物語を書きたい、と思っている。偶然なにげなくすれ違い、ささやかだけれど色鮮やかな記憶を刻むような。人生を動かすとか価値観を変えるとかそういう大仰なことではなく、でも忘れられない風景を残すような。

納豆の大根あえは、ものすごくねばねばしていておいしかった。

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