養老孟司×久石譲が明かす、脳と感覚の不思議な関係

映像より音楽で人は感動する?養老孟司×久石譲が明かす、脳と感覚の不思議な関係

インタビュー・対談

2025.04.30

映画を観るとき、私たちは自然と映像と音を一体として受け取っている。しかし、実際にはその二つが脳に届くスピードも、処理される経路も異なっているのだという。
解剖学者・養老孟司と作曲家・久石譲との対話は、人間の意識の奥底に潜む「時空間の統合」というテーマへと深く踏み込んでいく。視覚と聴覚、それぞれが持つ物理的特性と神経の働き、そして言葉の起源に至るまで。科学と芸術の最前線が交差するこの対話は、「私たちはどのように世界を知覚しているのか?」という根源的な問いを鮮やかに浮かび上がらせる。

映像より音楽が先に脳に飛び込む

久石 僕は映画音楽を続けていて、素朴な疑問として感じてきたことがあるんです。それは映像と音楽が人の脳に入ってくるスピードです。
 ご存知のように、映画というのは一秒に24コマの映像が流れます。映画音楽というのは、そのコマレベルまで合わせていく作業になるわけです。ところが、厳密に映像に合わせて音楽をつけると、間違いなく音楽の方が早く感じるんですよ。ぴったり合わせると、映像より先に音が聞こえてくるという現象が起きる。
 僕は経験則で、3コマか4コマ、場合によっては5コマ、音楽を遅らせたりしてきました。そうすると、映像と音楽がちょうど合う、違和感なくシンクロするんです。
 普通に考えたら、映像は光ですから、音速より速いですよね。それなのに音の方が早く感じられる。これがどういうメカニズムなのか不思議に思ってきたんです。

養老 それは意識の研究者が指摘しています。視覚と聴覚は処理時間がズレる。何の問題かというと、おそらくシナプスの数です。
 意識がどういう形で発生するかわかりませんけど、自分がこういうことを見ているというのと、聞こえてくるのと、脳の神経細胞が伝達して意識が発生するまでの時間が、視覚系と聴覚系とでは違う。だからズレているわけです。
 ただ、僕は根本的にはそれが当然だと思っています。というのは、目から入ってくるものと、耳から入ってくるものを合わせて捉(とら)えようなんてことをするのは、人間だけなんです、たぶん。元来、別々なものなんですよ。

久石 なるほど。

養老 そうでしょ、生き物になぜ目と耳があるかといえば、それぞれまったく違うものをつかまえるからでしょ? 両方が同じものをつかまえていたら、意味がない。どっちかでいい。早い話が、コウモリやクジラは音だけです。どっちかでいいんなら、それでもいい。両方要るということは、それぞれが別のものをつかまえるからです。その本来は別のものをつかまえる機能を結びつけて、両方一緒にしようとしたのが人間の人間らしいところです。
 普通は、それを意識しなくなっているんです。久石さんの音楽と『崖(がけ)の上のポニョ』のシーンがうまい具合に合体しているのを、不思議だと思っている人はいない(笑)。だけど、久石さん自身は、コンマ何秒という非常に細かいレベルで仕事をされているから、ズレがわかる。そういう状況ですね。
 逆にいえば、その音と映像のズレを利用することで、非常に妙なシーンとか奇妙なズレ感覚の映画がつくれるんじゃないですかね。

久石 ああ、それはありますね。

養老 場合によっては、洗脳的な効果を与えることもあると思いますよ。

目と耳の情報を統合する機能

養老 野外に出てみたら、聞こえる音と目に見える景色は別ものだということが、よくわかります。川が流れているから、音がする。いや、逆でしょう? 音がするから、「ああ、川があるんだな」とわかる。

久石 あっ、そうだ、音が先ですね。

養老 しかも小川のせせらぎというのは、実は周囲の林が音を増幅しているんです。ただ水が流れているから聞こえるんじゃなくて、森林のさまざまな樹木なんかと共鳴することで強く聞こえてくる。しかしそんなもの、見えるはずがない。外から聞こえてくる音と、我々が見ている風景は一致していない。当たり前のことなんです。
 もっと簡単な例は、セミですよ。ミンミンゼミはからだが緑で羽根が透き通っている、アブラゼミはからだが黒くて羽根が茶色、とみんな思っているけど、からだが黒くて羽根が茶色のセミが「ミーンミーン」と鳴いたっていいでしょう? アブラゼミみたいに鳴かなきゃいけない論理はない(笑)。
 僕がこういうことを言うと、「あいつ何言ってるんだ?」という顔を皆さんするんですけどね、それは目と耳の機能が本来まったく無関係だということを、問題として考えたことがないからですよ。
 スリランカで地震があった時、津波がまだ来ていないうちからゾウが一斉に内陸へ逃げたという話がある。耳が「危ないよ」と知らせているんです。それを見て人間も一緒に逃げればいいんだけど、ぐずぐずしてしまう。津波を目で確認してからあわてて逃げようとしたって、そりゃあ間に合いません。動物は人間みたいに複雑に考える能力を持っていない。だから自然なんです。

久石 人間の脳はなぜそういう能力、目と耳から入ってくるものを一緒にするような機能を持ったんでしょう?

養老 おそらく、他の動物は脳みそが小さすぎてその必要がないんです。人間は脳が進化して意識が発生してきた。そうなると、目から入ってきた情報を処理してわかることと、耳から入ってきた情報を処理してわかること、どっちのいうことをきいたらいいのかわからなくなる。つまり、目と耳から違うことが入ってくるからこそ、どちらも「同じ自分だよ」という機能を同時に発達させないといけなかったんだと思います。でないと、完全に人格分裂しちゃいますから。
 脳みそが大きくなってきて、目に直属するのでも、耳に直属する分野でもない、いってみれば余分な分野ができてきた。人間の場合、そこが非常に大きくなった。簡単にいえば、それがいわゆる「連合野」です。
 そして、目からの情報と耳からの情報、二つの異質な感覚を連合させたところにつくられたのが「言葉」。人間は「言葉」を持つことで、世界を「同じ」にしてしまえたんです。
 言葉は目で見ても、耳で聴いても同じです。ただし、それを結合させるためにはある要素が必要になる。視覚にないものは何か、それは「時間」です。写真を撮ってもそこに時間は映らない。絵にも時間は描けない。目にとって、時間は前提にならないんです。その代わり、空間が前提になる。一方、聴覚にないものは何か、「空間」です。ないというとおかしいですが、いわゆるデカルト座標は視覚、聴覚は極座標で距離と角度しかない。どのくらい遠くから聞こえるかと、どっちから聞こえるか、それだけです。
 目が耳を理解するためには、「時間」という概念を得る必要があり、耳が目を理解するためには、「空間」という概念をつくらなきゃいけない。それで「時空」が言葉の基本になった。言葉というのはそうやって生まれてきたんです。

※本稿は、養老孟司・久石譲『脳は耳で感動する』(実業之日本社)の一部を抜粋・編集したものです。