
『母なる自然のおっぱい』池澤夏樹自然と人間の境界をほどいていく本—編集者が再び届けたいと思った理由
作品紹介
2025.05.04
かつて多くの読者の心を揺さぶりながらも、絶版となっていた池澤夏樹の名著『母なる自然のおっぱい』が、いま、再び世に送り出されます。オランウータン、エスキモー、狩人たちとの対話を通して、人間と自然、動物との本質的なつながりを問いかけてきたこの一冊を、なぜいま再刊するのか——。
本書の復刊に携わった担当編集者が、作品と向き合う中で芽生えた思いと、いまこそ読まれるべき理由を綴ります。
(文:実業之日本社・村嶋章紀)
いま、この本を再刊する意味
1992年に新潮社から刊行された『母なる自然のおっぱい』。その後文庫化されながらも、長らく絶版となっていたこの一冊を、あらためて手に取れるかたちで世に送り出しました。それは、編集者としての使命に近いものがあります。
この本に綴られているのは、文学と科学、知と感性の両輪で自然と人間を見つめてきた著者の、透徹した思索の軌跡です。オランウータンの倫理性、エスキモーの狩猟知、死に対する動物たちの構え、自然との交感が断たれてしまった現代人の孤独——本書はそれらを、極めて平易な言葉と深い洞察とで描き出しています。
著者自身が再刊に寄せた言葉にあるように、「自然は人間界のすぐ外にあってすべての存在のフレームとなっている」。この言葉は、気候危機や資本主義の限界が叫ばれる今日において、単なる理屈ではなく、生き方の“軸”を改めて問い直す警鐘のように響きます。
失われた“交感”を取り戻すために
この本の核にあるのは、人と動物、そして自然との「交感」の思想です。たとえばアイヌの人々が「ヒグマは神が姿を変えて訪れる存在」として崇め、正しく殺し祀ることで神の魂を帰すという世界観。あるいは、狩人がイノシシの動きを読み、相手の知恵と想像力に敬意を払いながら罠を仕掛ける緊張感。それは、単に動物を“対象”とするのではなく、自分たちもまた動物であることを忘れず、その関係性のなかで生きていたという、かつての人間の知恵そのものです。
自然や動物たちは、単なる背景やリソースではありません。著者はそこに宿る生命の知性、沈黙の倫理、死の受容を読み解き、それに耳を傾けることこそが、現代人にとっての“救い”にもなるのではないかと、静かに、しかし確かな言葉で語りかけてきます。
編集者として、この本と向き合って
私が初めて『母なる自然のおっぱい』を読んだのは、まだ出版業に携わって間もない頃でした。社会のなかで生きる術ばかりを学び、自然や生死といった根源的な問いに向き合う機会などほとんどなかった当時の自分にとって、この本は、世界の見え方そのものを変えるような衝撃を与えてくれました。本書の言葉には、決して押し付けがましくないのに、深く胸に残る不思議な力があります。「動物と自分の境界線が、少しずつあいまいになっていくような感覚」とでも言えばよいでしょうか。そしてその境界の曖昧さの中にこそ、人間が忘れかけていた何かがあるように思えてなりませんでした。
だからこそ、もう一度この本を世に出すべきだと強く感じたのです。それは、懐かしい過去への郷愁ではありません。いま、この時代を生きるすべての人が、自分の中の「動物の部分」と向き合い、自然の一部としての感覚を取り戻すためにこそ必要だと確信したからです。
最後に——「読む」というより「感じる」一冊へ
新たに書き下ろされた「ハイイロチョッキリの仕業」を加えつつ、本文には一切手を加えず再刊されたこの本は、まさに“今だからこそ読みたい古典”です。理屈よりも感性で、答えよりも問いかけで、あなたの中の何かを揺さぶってくれるでしょう。書名の意味も改めて記しておきましょう。原題に込められたのは「Mother Nature's breast-feeding(母なる自然による授乳)」というイメージ。自然がわたしたちに、母乳のようにやさしく、しかし確かに何かを与えてくれている——そんな世界観がこの本全体を貫いています。
読了後、きっと心に残るのは、科学でも文学でもない、“沈黙の倫理”とも呼ぶべきものかもしれません。私たちはいま、その倫理を静かに思い出すときにいるのではないでしょうか。