『奇のくに風土記』刊行に寄せて 木内 昇

2025年5月新刊 知られざる本草学者をモデルにした時代幻想譚『奇のくに風土記』刊行に寄せて 木内 昇

自作解説

2025.05.28

 畔田翠山という本草学者を知ったのは、もう二十年近く前のことだ。南方熊楠や牧野富太郎といったメジャーな植物学者とは異なり、その足跡に謎が多いことにまず惹かれた。燦々と日の当たるところに在る人よりも、なにかを究めながらも、それを声高に唱えることなくひっそり佇んでいる人が気になってしまうのは、物書きとしての私の癖で、折々に翠山の残した書画を眺めるなどして楽しんできたのである。 歴史上の人物を描くにしても、当然ながら小説は実録とはいかない。いかに丹念に調べたとて、彼らが交わした会話や動作の一部始終を確かめることは不可能だからだ。ゆえに、史料をよくよく咀嚼して、想像でその隙間を埋めるのだが、改めて考えると、なんと不遜なことをしているのかと恐ろしくもなる。
 にもかかわらず、今回、翠山の少年期を思い切って幻想譚に落とし込んだのは、先に書いた謎の多さに加え、彼が「天狗(てんぎゃん)」と呼ばれていたというエピソードに接したことに拠る。本草採取に行くとなかなか戻らなかったことからついた異名とも言われるが、憑かれたようにひとつことに夢中になっている者を、当時の紀州ではそんな言葉で表していたのかもしれない。
 小原桃洞に学び、のちに紀州藩主・徳川治宝のもとで働くことになる翠山が、多感な少年期に夢中になって植物と接する中、空想と現実とがごっちゃになる瞬間もあったのではないか。種の異なるものを理解しようと努めるとき、そこに介在した彼の想像は、決して否定的なものではなく、楽しく豊かなものであったのではないか──そんな願いにも似た思いからはじまった連載だった。
 紀州という土地は、いつ訪れても美しい。紀の川は言うに及ばず、山も川も、行くたび深く魅入られる。私の父の故郷がやはり蜜柑の産地で、山河の様子がとても似ているから、原風景的な親しみを覚えるのかもしれない。
 連載時はコロナ禍で、人と自由に会えない日が続き、だいぶくさくさした。それでも我が家の小さな庭では例年と変わらず、草木は芽吹き、花を咲かせていた。その泰然とした循環には本当に励まされた。大袈裟に言えば、世界は終わってないんだな、ということを教えられた気分であった。
 変わりゆくものと、変わらないもの。存在するさまざまな形。種を越えて、睦み合う様……。翠山の目を通して、あの「美(う)っつい」国の景色へと分け入ると、世間一般では容易ならざると捉えられていることが、穏やかにひとつに溶けていくようにすら感じたのだ。

 最後に、装画の作者であるMAYA MAXXさんについて記しておきたい。
 MAYAさんと出会ったのは、やはり二十年ほど前のことだ。『東京の仕事場』という、クリエイターの仕事場を取材した書籍に登場いただいたのである。当時彼女は、祖師谷の一軒家で制作をしていた。アトリエ取材の際、絵を描く様子を見せてくださり、そのダイナミックな筆さばきに圧倒されたのを今でもはっきり覚えている。
 後日、取材をまとめた文章を確認のためにお送りしたとき、「木内さんは、たぶん小説家になるよ」と、MAYAさんは確信に満ちた調子で言った。私がまだ小説を書く以前で、というより、小説を書こうとすら思っていなかった時期だったから、「いやいや、小説なんて考えたこともないですよ」と、そのときは笑っていたのだが、数年後にそんな流れになったのだから人生というものはわからない。
 その後、京都に居を移したMAYAさんと会ったとき、「やっぱり言った通りになったでしょ」と、別段誇るでもなく、当たり前のように語っていたのが印象に残っている。
──もしや未来が見えていたのか!?
 不思議な力を持っていた人だったから、ふとそんなことを思ってしまったが、本当のところはわからない。
 いつか拙著の装画を、と私も思い、MAYAさんもまた、そう言ってくれていた。が、いかんせん、自分の書くものが時代物、歴史物のため、MAYAさんの画風に合わないのではないかとためらって、だいぶ時が経ってしまった。
 数年前、ひょんなことで久々に連絡をとった際、
「あの約束、忘れてないからね」
と、電話の向こうで少し冗談っぽくMAYAさんは言った。『奇のくに風土記』を書き始めたあたりで、この小説ならMAYAさんの画風に馴染むかもしれないと思いつつも、具体的なことはお伝えせずにいた。本を作る際、編集者や装丁家など制作陣と話し合った上で、デザインを決定するので、勝手に先走るのは禁物と控えたのである。
 けれど、ようやくお願いできる下地が整ったときに届いたのは、MAYAさんの訃報だった。
 ご病気だったことも知らなかったから、当初は信じられなかった。元気の代名詞みたいな人だったから、きっと八十になっても九十になっても描き続けるんだろうと勝手に思い込んでいた。いつでも会えると思って、安閑としていた。
 諦めきれないけれど、装画のことは断念するしかないと消沈していたところ、編集者と装丁家がMAYAさんの作品群からふさわしいものを見出してくださり、さらに作品を管理されている來嶋さんのご協力もあって、素晴らしい装丁ができあがった。この場を借りて、お礼を申し上げます。
 生前に約束を果たすことはできなかったけれど、これもすべてMAYAさんのおかげです。ありがとうございました。
 目に浮かぶのはやっぱり、ダイナミックな筆さばきで絵に向かっているMAYAさんの姿だ。この装丁が、再びMAYA MAXXの遺した多くの作品に触れるきっかけになれば、こんなにうれしいことはありません。
 誰かの遺した作品は、それを手にした人の内で、草木と同じく何度も芽吹き、花を咲かせるのだと信じています。