疲れ果てた先、背徳のすすめ   阿川大樹

2025年6月新刊『終電の神様 夜明けの行進』刊行記念エッセイ疲れ果てた先、背徳のすすめ   阿川大樹

自作解説

2025.06.18

 あたり一面の茶畑。3月半ばのある日、緑の真っ只中にいた。
 そんな場所にも鉄道があった。駅らしきものを見つけて車を駐め、駅舎に入る。誰もいない。
 無人駅では自由に改札を抜けてプラットホームへ出ることができる。ローカル線の乗車運賃は列車に乗ってから支払う。それを知っているのに、ゲートを抜けるとき、小さな背徳感が頭をよぎった。
 ふだん暮らしているところでそれは犯罪行為だ。同じ行為がここでは犯罪ではない。
 広い空、天高い雲、緑の茶畑を渡る風、そういったものだけではなく、そこには何かちがう開放感があった。

 都会の日常は時間に縛られている。
 起きる時間、家を出る時間、電車に乗る時間、仕事場に到着する時間、それらすべてが段取りよく守られなければ、一日は正常に始まらない。
 職場のチームワークのための数々のタイミング、相手を待たせ過ぎない回数の電話の呼び出し音、プロジェクトの納期、あるいは出張精算の期限。
 無数の守らなければならない時間が在るのに、仕事が終わる時間は決められていない。けれど、終えなければならない時間は、最終列車に間に合う時刻までと決まっている。
 たとえ仕事が早く終わって、居酒屋で、バーで、楽しい時間を過ごしていたとしても、その時間はやはり終電の時刻で分断される。

 最終列車の発車時刻は、日常の果てに厳然と訪れる境界だ。
 原因が何であれ、その境界を越えてしまったとき、その先には不連続な何かしら望まないことが待っている。ふつうは。そう、ふつうは。
 疲れ切っているのに行列の中で延々とタクシーを待つ。あるいは仕方なく朝まで街のどこかで過ごすと決心する。
 もうとっくに疲れているのに、眠いのに、少しでもましな居場所を求めて案を巡らし、時には街を彷徨う。
 思いやられる悲惨な明くる日。
 休息のために家に帰るという目的がある限り、交通手段を失うことはその晩の安息を諦めるということだ。
 それを望まないからこそ、人は最終列車という時限に縛られる。
 終電に間に合いさえすれば、車両が混雑して座れなくても、もう少しだけ耐え忍ぶことで、確実に、休息の時間が待っている。

 けれどときには何かの理由で、思い通りにならない夜が来る。
 うっかり事務所に忘れ物をしたせいかもしれない。列島を襲う暴風雨のせいかもしれない。時には自分のせいで、時には不可抗力で、最終列車を逃す、あるいは、最終列車の運休を知らされる。
 でも、いつだって、世界はその夜の奥にも続いているのだ。
 眠らない街で働く人がいる。夜の街で働くために終電で職場に向かう人もいる。電車がなくなるまで客をもてなし、それからやっと自分がもてなされる立場になって夜を過ごす人もいる。帰る場所を夜の街に求める人もいる。
 帰らなければならないという呪縛を解いたとき、世界は違って見えてくる。
 日常の果てに現れる時間を跨いだとき、もしかしたら自分を日常から解き放つチャンスがやってくるのだ。

 聞こえる? 耳を澄ませば、誰かが囁いている。
《今夜、最終列車に乗り遅れてみよ》
 そこには経験したことのない新しい自由が待っている。
 大丈夫、帰るべきあなたの場所は逃げたりしない。
 小さな背徳に身を任せれば、夜は少しずつほどけ、景色はかすかに光を含んでいく。その景色の輪郭が、きっと新しい力を運んできてくれる。
あがわ・たいじゅ

1954年東京都生まれ。東京大学在学中に野田秀樹らと劇団「夢の遊眠社」を設立。企業のエンジニアを経て、シリコンバレーのベンチャー設立に参加。99年「天使の漂流」で第16回サントリーミステリー大賞優秀作品賞受賞。2005年『覇権の標的』で第2回ダイヤモンド経済小説大賞優秀賞を受賞し、デビュー。主な著書に『D列車でいこう』『インバウンド』『横浜黄金町パフィー通り』など。『終電の神様』で第9回エキナカ書店大賞受賞。