馬渕俊介『道をつくる』プロローグ&第1章 特別公開東大入学式の祝辞だけでは語りきれなかったこと 第1章3回目
作品紹介
2025.08.04
「たった一度の人生を、どう生きるか」――東京大学入学式の祝辞が、多くの人の心を震わせた。
2023年4月、日本武道館に立ったのは、一人の無名の国際機関職員だった。JICA、マッキンゼー、世界銀行、ゲイツ財団、そして現在はグローバルファンドで世界の感染症と闘う馬渕俊介氏。彼が東大新入生に語りかけた祝辞は、やがて10代から40代以降のビジネスパーソンまで、多くの人の人生に深く刺さるメッセージとなった。
「夢は、探し続けて行動し続ける人にしか見つけることはできない」
「環境は『わらしべ長者』のように力をつけて、経験を組み合わせながら得ていくもの」
「時間がすごく限られているなかで考えるべきリスクは、行動を起こさずに現状に留まることのリスク」
――そんな言葉の背景には、失敗と葛藤に満ちた30年の道のりがあった。
祝辞の裏にある“物語”を語り尽くすべく、生い立ちからキャリアの選択、世界との格闘の日々を綴った渾身の一冊『道をつくる』。そのプロローグと第1章を、特別に実日オンラインにて連続公開します。
第1章は全5回に分けて掲載。今回はその3回目です。
第1章2回目はこちら
大学入学後、野球を「やり切れなかった」ことへの反動から、何か好きなことを見つけなければならないと強く思った。手始めに、自分はどのような学問が好きなのかを見極めるため、少しでも興味のある授業は片っ端から受けてみた。有力候補だと思っていた心理学や民俗学は、心に響かなかった。考古学にはロマンを感じたが、人生を賭けるものにはならない気がした。政治学は面白く深く学んだが、多くの人々が学ぶ中で、私があえてやるものでもない気がした。
そこで出会ったのが文化人類学だった。
きっかけは、授業でパプアニューギニアの先住民「カルリ族」の儀礼「ギサロ」の映像を見たことだった。鳥に扮した歌い手が、心を込めて亡くなった人々を悼む歌を歌う。周囲で見ている観衆は、それに感動すると、歌い手の背中に火をつける。火傷がひどいほど、歌い手として尊敬される。はじめて見るその儀礼に、心が震えるような衝撃を受けた。世界には、自分の価値観では到底測れない文化があると、冒険心が搔き立てられた。
それと同時に、自分では想像もできない文化や慣習の中に入り込み、そこで生活しながら「人間とは何か」を考え、自分たちが属する社会について考える文化人類学という学問に、強烈に魅せられた。
文化人類学は「文化相対主義」の思想を掲げる。
「あらゆる文化には、違いはあっても、優劣はない。それぞれの文化、それぞれの社会には、その社会に根ざした合理性がある」 この思想にも強く共感し、私はここから文化人類学にのめり込んでいく。
私は文化人類学者を目指し、大学が休みに入るたびに、バックパックを背負ってたった一人で世界中を旅して回った。さまざまな国や地域を旅しながら、日本と全く違うその地の文化や人々に触れたいと思った。現地の人たちと同じ食事を食べ、同じところに寝泊まりさせてもらい、そのなかで彼らがどのような暮らしをしているのか感じたかった。もちろん、一人で旅をしてみたいという冒険心も、大きな理由のひとつだった。
旅の最初は、スペインから地中海を渡ってアフリカのモロッコに入るルートだった。アフリカに関しては、後日エジプトにも行った。中米も行きたい地域のひとつだった。メキシコを南下して夜行バスでグアテマラに入り、両国と国境を接するカリブの国ベリーズにも行った。日本からも近い東南アジアでは、タイからピックアップトラックの荷台に乗って、凄まじいでこぼこ道を通って国境を越え、カンボジアに入った。さらには、丸2日間山道を歩き続けてようやく辿り着く、ネパールの山奥の村にも足を踏み入れた。
文化人類学を志すにあたって、まずアフリカに関心を持った。その理由はあまり覚えていないが、経済的な状況の違い、それぞれの部族社会が持つカルチャーの違いなど、アフリカが先進国の社会と一番違って見えたからだろう。もともとあった伝統文化と、変わりゆく社会のせめぎ合いにも面白さを感じた。
中米に足を向けたのは、かつて本で読んだインカ文明やマヤ文明などの古代遺跡を実際に見てみたかったことが動機だ。東南アジアも、アンコールワット遺跡などに興味を惹かれた。いろいろな場所に行きたい、さまざまなことを知りたい、現地の人たちから学びたい。そうした興味や冒険心から、さまざまな国に足を運んだ。
旅を重ねるうち、フィールドワークのようなことも体験できた。
グアテマラに旅行中、マム族という少数民族の村を訪ね、その村を支援しているという人を見つけて仲介を頼み、受け入れてくれた家庭にお邪魔して、3週間ほどホームステイした。日々の暮らしのなかで現地語を学び、彼らの生活のお手伝いをした。
とても美しい村だったが、生活は厳しいものだった。ようやくテレビが普及し始めたころだったので、外の文化を知り、彼らなりに生活を向上させようとしていた。
しかし、現実は高地で気温が低く猛烈に寒いにもかかわらず、暖を取る道具がなかった。かろうじて毛布があるにはあったが、毛布はダニだらけ。寒がりの私は、毛布を5枚も重ねてかけなければ寒さをしのげないが、かければダニに体中をボロボロにされ、かけなければ凍えるという究極の選択を迫られた。
滞在中、家族の健康状態が悪くなったことがあった。ところが、医療へのアクセスがまったくなかったため、子どもが病気になっても病院に連れて行くこともできなければ、薬もない。治るまでただ見届けるしかできない状況で、私も固唾をのんで見守ることしかできなかった。
また、現地語の先生をしてくれていた人から、涙ながらに凄惨な経験を語られる。この村にはグアテマラ政府軍に追い込まれた左翼ゲリラが逃げ込んで、現地の人々が統制された歴史がある。軍が組織したグループに「ゲリラ」とみなされて殺され続けた。私の先生の家族も、その犠牲者だった。洗練された手織りの衣服や宗教、土でできたかまくらのようなサウナなど、美しい文化の裏にある理不尽に気づかされ、愕然とした。
こうした過酷な現実を見て、ある考えが強くなっていく。それは、「途上国の人たちが自らの文化や社会と折り合いをつけながら、自らの手で生活を改善していくことをサポートしたい」というものだ。
この思いが強くなったのは、厳しい現実から目をそらし、途上国の独特の文化の面白さだけを伝えようとするやり方に納得できなかったからだ。現地の人たちと濃密に触れ合うことにも魅力を感じたので、実際にコミュニティに入って開発をサポートする職業に就きたいと思った。
ネパールでは、ヒレという東部の山奥の村で過ごした。
その村ではアミットという同年代の若者と仲良くなった。彼の家に遊びに行かせてもらい、友達も紹介してもらって、道端でいろいろな話をして過ごした。話していると、彼がものすごく頭が良いことにすぐに気がついた。しかし、彼が現地でその頭脳を生かすことも、決まった仕事にありつくこともできなかった。
あるとき、アミットがサウジアラビアに出稼ぎに行った話を聞いた。まずは、ネパールの山奥の村からサウジアラビアに出稼ぎに行くことに驚いた。その理由を聞いて、更に驚いた。
「カースト制度は知ってるかい? 生まれてきたカーストによって、その人の身分とできる仕事が決まってしまう制度だ。ネパールには、いまだにカースト制度が残っている。僕の家系は下位のカーストに位置するから、ネパールではまともな仕事がさせてもらえないんだよ。うちの家族は生活を続けるのがすごく難しくなった。そこで僕が送金して家族を支えるために、知り合いに紹介してもらってサウジアラビアに出稼ぎに行ったんだ」
「でも、帰ってきてからも、何も変わらなかった。今も安定したまともな仕事がない。生活していくのは大変だよ。正義のかけらもないカースト制度のせいで、僕の人生は辛いことばかりだ」
私は、これほど頭脳明晰な人でもまったく仕事がないことに愕然とした。これからどうやって生きていけばいいのかわからないという不安と不満も聞かされた。
突然コミュニティを訪れて、表面上では友情を育んだように見えても、私は安定した豊かな国からやって来て、安定したところに帰って何不自由なく暮らす。その厳然とした違いを思い知らされると同時に、そういう人たちに何かを返したい気持ちが芽生えた。こうした生々しい経験が、私を途上国支援の仕事に掻き立てる原点になった。
次回の公開は8/6(水)を予定しています
2023年4月、日本武道館に立ったのは、一人の無名の国際機関職員だった。JICA、マッキンゼー、世界銀行、ゲイツ財団、そして現在はグローバルファンドで世界の感染症と闘う馬渕俊介氏。彼が東大新入生に語りかけた祝辞は、やがて10代から40代以降のビジネスパーソンまで、多くの人の人生に深く刺さるメッセージとなった。
「夢は、探し続けて行動し続ける人にしか見つけることはできない」
「環境は『わらしべ長者』のように力をつけて、経験を組み合わせながら得ていくもの」
「時間がすごく限られているなかで考えるべきリスクは、行動を起こさずに現状に留まることのリスク」
――そんな言葉の背景には、失敗と葛藤に満ちた30年の道のりがあった。
祝辞の裏にある“物語”を語り尽くすべく、生い立ちからキャリアの選択、世界との格闘の日々を綴った渾身の一冊『道をつくる』。そのプロローグと第1章を、特別に実日オンラインにて連続公開します。
第1章は全5回に分けて掲載。今回はその3回目です。
第1章2回目はこちら
第1章 夢を見つけ、形作る
世界を放浪して自分の夢の原体験を得る大学入学後、野球を「やり切れなかった」ことへの反動から、何か好きなことを見つけなければならないと強く思った。手始めに、自分はどのような学問が好きなのかを見極めるため、少しでも興味のある授業は片っ端から受けてみた。有力候補だと思っていた心理学や民俗学は、心に響かなかった。考古学にはロマンを感じたが、人生を賭けるものにはならない気がした。政治学は面白く深く学んだが、多くの人々が学ぶ中で、私があえてやるものでもない気がした。
そこで出会ったのが文化人類学だった。
きっかけは、授業でパプアニューギニアの先住民「カルリ族」の儀礼「ギサロ」の映像を見たことだった。鳥に扮した歌い手が、心を込めて亡くなった人々を悼む歌を歌う。周囲で見ている観衆は、それに感動すると、歌い手の背中に火をつける。火傷がひどいほど、歌い手として尊敬される。はじめて見るその儀礼に、心が震えるような衝撃を受けた。世界には、自分の価値観では到底測れない文化があると、冒険心が搔き立てられた。
それと同時に、自分では想像もできない文化や慣習の中に入り込み、そこで生活しながら「人間とは何か」を考え、自分たちが属する社会について考える文化人類学という学問に、強烈に魅せられた。
文化人類学は「文化相対主義」の思想を掲げる。
「あらゆる文化には、違いはあっても、優劣はない。それぞれの文化、それぞれの社会には、その社会に根ざした合理性がある」 この思想にも強く共感し、私はここから文化人類学にのめり込んでいく。
私は文化人類学者を目指し、大学が休みに入るたびに、バックパックを背負ってたった一人で世界中を旅して回った。さまざまな国や地域を旅しながら、日本と全く違うその地の文化や人々に触れたいと思った。現地の人たちと同じ食事を食べ、同じところに寝泊まりさせてもらい、そのなかで彼らがどのような暮らしをしているのか感じたかった。もちろん、一人で旅をしてみたいという冒険心も、大きな理由のひとつだった。
旅の最初は、スペインから地中海を渡ってアフリカのモロッコに入るルートだった。アフリカに関しては、後日エジプトにも行った。中米も行きたい地域のひとつだった。メキシコを南下して夜行バスでグアテマラに入り、両国と国境を接するカリブの国ベリーズにも行った。日本からも近い東南アジアでは、タイからピックアップトラックの荷台に乗って、凄まじいでこぼこ道を通って国境を越え、カンボジアに入った。さらには、丸2日間山道を歩き続けてようやく辿り着く、ネパールの山奥の村にも足を踏み入れた。
文化人類学を志すにあたって、まずアフリカに関心を持った。その理由はあまり覚えていないが、経済的な状況の違い、それぞれの部族社会が持つカルチャーの違いなど、アフリカが先進国の社会と一番違って見えたからだろう。もともとあった伝統文化と、変わりゆく社会のせめぎ合いにも面白さを感じた。
中米に足を向けたのは、かつて本で読んだインカ文明やマヤ文明などの古代遺跡を実際に見てみたかったことが動機だ。東南アジアも、アンコールワット遺跡などに興味を惹かれた。いろいろな場所に行きたい、さまざまなことを知りたい、現地の人たちから学びたい。そうした興味や冒険心から、さまざまな国に足を運んだ。
旅を重ねるうち、フィールドワークのようなことも体験できた。
グアテマラに旅行中、マム族という少数民族の村を訪ね、その村を支援しているという人を見つけて仲介を頼み、受け入れてくれた家庭にお邪魔して、3週間ほどホームステイした。日々の暮らしのなかで現地語を学び、彼らの生活のお手伝いをした。
とても美しい村だったが、生活は厳しいものだった。ようやくテレビが普及し始めたころだったので、外の文化を知り、彼らなりに生活を向上させようとしていた。
しかし、現実は高地で気温が低く猛烈に寒いにもかかわらず、暖を取る道具がなかった。かろうじて毛布があるにはあったが、毛布はダニだらけ。寒がりの私は、毛布を5枚も重ねてかけなければ寒さをしのげないが、かければダニに体中をボロボロにされ、かけなければ凍えるという究極の選択を迫られた。
滞在中、家族の健康状態が悪くなったことがあった。ところが、医療へのアクセスがまったくなかったため、子どもが病気になっても病院に連れて行くこともできなければ、薬もない。治るまでただ見届けるしかできない状況で、私も固唾をのんで見守ることしかできなかった。
また、現地語の先生をしてくれていた人から、涙ながらに凄惨な経験を語られる。この村にはグアテマラ政府軍に追い込まれた左翼ゲリラが逃げ込んで、現地の人々が統制された歴史がある。軍が組織したグループに「ゲリラ」とみなされて殺され続けた。私の先生の家族も、その犠牲者だった。洗練された手織りの衣服や宗教、土でできたかまくらのようなサウナなど、美しい文化の裏にある理不尽に気づかされ、愕然とした。
こうした過酷な現実を見て、ある考えが強くなっていく。それは、「途上国の人たちが自らの文化や社会と折り合いをつけながら、自らの手で生活を改善していくことをサポートしたい」というものだ。
この思いが強くなったのは、厳しい現実から目をそらし、途上国の独特の文化の面白さだけを伝えようとするやり方に納得できなかったからだ。現地の人たちと濃密に触れ合うことにも魅力を感じたので、実際にコミュニティに入って開発をサポートする職業に就きたいと思った。
ネパールでは、ヒレという東部の山奥の村で過ごした。
その村ではアミットという同年代の若者と仲良くなった。彼の家に遊びに行かせてもらい、友達も紹介してもらって、道端でいろいろな話をして過ごした。話していると、彼がものすごく頭が良いことにすぐに気がついた。しかし、彼が現地でその頭脳を生かすことも、決まった仕事にありつくこともできなかった。
あるとき、アミットがサウジアラビアに出稼ぎに行った話を聞いた。まずは、ネパールの山奥の村からサウジアラビアに出稼ぎに行くことに驚いた。その理由を聞いて、更に驚いた。
「カースト制度は知ってるかい? 生まれてきたカーストによって、その人の身分とできる仕事が決まってしまう制度だ。ネパールには、いまだにカースト制度が残っている。僕の家系は下位のカーストに位置するから、ネパールではまともな仕事がさせてもらえないんだよ。うちの家族は生活を続けるのがすごく難しくなった。そこで僕が送金して家族を支えるために、知り合いに紹介してもらってサウジアラビアに出稼ぎに行ったんだ」
「でも、帰ってきてからも、何も変わらなかった。今も安定したまともな仕事がない。生活していくのは大変だよ。正義のかけらもないカースト制度のせいで、僕の人生は辛いことばかりだ」
私は、これほど頭脳明晰な人でもまったく仕事がないことに愕然とした。これからどうやって生きていけばいいのかわからないという不安と不満も聞かされた。
突然コミュニティを訪れて、表面上では友情を育んだように見えても、私は安定した豊かな国からやって来て、安定したところに帰って何不自由なく暮らす。その厳然とした違いを思い知らされると同時に、そういう人たちに何かを返したい気持ちが芽生えた。こうした生々しい経験が、私を途上国支援の仕事に掻き立てる原点になった。
次回の公開は8/6(水)を予定しています
著者プロフィール
馬渕 俊介(まぶち しゅんすけ)
1977年生まれ。東京大学卒業後、国際協力機構(JICA)、マッキンゼー日本、南アフリカオフィスを経て、世界銀行勤務。2014-16年に西アフリカで大流行したエボラ出血熱の緊急対策を統括し、流行の収束に大きく貢献。その後ビル・ゲイツ率いるゲイツ財団で副ディレクターとしてプライマリーヘルスケア戦略の策定などを担当。コロナ禍には、WHOの独立パネルでパンデミックを二度と起こさないための国際システムの改革を提言。2022年からグローバルファンドで、途上国の保健システム強化及びパンデミック対策を統括。ハーバード大学公共政策修士、ジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生博士。

