河治和香『旅行屋さん 日本初の旅行会社・日本旅行と南新助』ブックレビュー日本初の団体旅行はお伊勢参りだった! ビジネス成長の原動力とは何かを気づかせる〈旅行屋さん〉創業者の物語 末國善己(文芸評論家)
書評
2025.10.20
2025年が創業120周年の日本旅行では、草創期の団体旅行を現代風にアレンジして復刻した「大阪~長野直通団体貸切列車『日本旅行創業120周年記念号』で行く長野・善光寺への旅1泊2日」など記念事業を行うようだ。河治和香の新作は、日本旅行を創業した南新助の一代記である。だが日本旅行には創業時の記録がなく、新助が語った〈昔ばなし〉しか残されていないという。ただ著者は、現在も東京浅草で人気の「駒形どぜう」の六代目の記憶と史料を基に、幕末を生きた三代目の痛快な人生を描いた『どぜう屋助七』を発表しており、本書も史実と虚構、ビジネス小説と人情もののエッセンスが見事に融合している。
明治22年(1889年)、東海道線の草津駅が開業した。親しかった隣村の木村熊治郎と共に用地買収に協力した南信太郎は、草津駅構内での立売営業権(駅弁などを販売する権利)を与えられる。この時、信太郎の息子の新助は四歳だった。当時の列車にはトイレがなく、乗客は駅に着くとホームで用を足していた。それを見た信太郎は、駅の近くにトイレを付けた茶店を作り〈南洋軒〉と名付け、弁当の立売も同じ屋号で行う。
信太郎と親しい熊治郎は、染色の下絵を描くのに使う青花紙を売っていたが、明治に入って青花紙の需要が減ると草津名物の竹の根鞭細工に目を付け、根鞭で西洋人向けのステッキを作り、イギリスから乳牛を輸入して牛乳の宅配を始めるなどベンチャー精神に富んだ人物だった。新助が旅行業という新事業を始めることができたのは、子供の頃から熊治郎と接していた影響もあるようだ。熊治郎が製造販売していた根鞭のステッキは、近代日本を揺るがす大事件にもかかわっているが、それが何かは実際に読んで確認して欲しい。なお熊治郎が始めた牛乳事業は、現在も草津の木村牧場で継続されている。
明治33年(1900年)、16歳になった新助は、東京外村私塾商業科に入学するために上京。折しも東京近郊では、大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)、成田鉄道(現在のJR東日本成田線)など、参拝客を運ぶ鉄道路線が誕生していた。新助は熊治郎からもらった軍資金で、鉄道を使って寺社仏閣に足を運び〈精進落とし〉も楽しんだ。
学校を卒業した新助は、草津に戻り〈南洋軒〉の若旦那になる。徴兵検査に合格した新助は、しばらく帰れなくなることもあり、戦勝祈願にお伊勢参りに行きたい人たちを案内することにした。明治38年(1905年)、深夜に臨時便を走らせてもらい、はぐれる人が出ないよう縄で輪を作って村ごとに入れ、伊勢の御師(寺社に所属し、参拝客の案内、食事宿泊などの手配を仕事とする人)のアイディアで案内人が尾籠だが目立つ印を持つなどしたお伊勢参りは成功する。この伊勢神宮参拝が日本初の団体旅行で、日本旅行の始まりとなった。
新助の案内でお伊勢参りに行った人たちの中から、善光寺に行きたいとの声が上がる。400人を集めると運賃が半額になると聞いた新助は、参拝者を募集し、善光寺詣での世話役の協力もあり二倍以上が集まってしまう。この人数をどのように善光寺に運ぶのか、大勢の参拝者の宿泊所や食事の用意が善光寺側でできるのか。さらに新助は、知恩院から遠忌法要のために全国から信徒を集めて欲しいと頼まれる。こうした難題を新助が斬新なアイディアでクリアしていくところが、前半のクライマックスになっている。
明治の仏教界は廃仏毀釈で大ダメージを受けていたが、新助が始めた参拝の団体旅行や法要のために全国から信徒を集める旅行が、寺の新たな収入源になり仏教存続の一助になったとの指摘は興味深い。現在も寺社を回る旅行は人気だが、その源流を作ったのが新助だったというのは新たな発見だった。
熊治郎の娘・貞と結婚した新助は、義父から受け継いだかのようなベンチャー精神で旅行業を拡大させ、社名を日本旅行会とする。ただ椅子に座るのが苦手な人のために御座敷列車を考案するなど、自ら先頭に立ってお客さんに快適な旅行をしてもらえる方策を次々と打ち出す新助の心遣いは、「旅行屋さん」と呼ばれている頃から変わらなかった。作中には、昭和初期の団体旅行の旅程表が当時の資料のまま引用されているが、現代では考えられないほどめぐる場所が多いハードなスケジュールになっている。それでも疲れが取れるよう温泉宿を挟んだり、複数の候補から行きたい名所を選べたりと、お客さんへの配慮がうかがえる。
当初、現代的にいえばインバウンド専門の旅行会社だった半官半民のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社、JTB)が日本人向けの旅行を始めてライバルになり、鉄道は軍事物資の輸送が優先され観光旅行への風当たりが強くなった第二次世界大戦など、日本旅行会は何度も危機を迎える。戦後になると、シベリア抑留を経験した新助の息子の新太郎が、いち早く海外旅行に目をつけ、旅行の主軸が鉄道からモータリゼーションへ移ると予見し自動車旅行をする人のためのドライブイン、レジャー産業の拡大を見据えてホテル、ゴルフ場、遊園地の経営も始める。近代的な企業経営者だった新太郎は、最後まで「旅行屋さん」だった新助とは経営のスタイルは違ったが、顧客満足度を優先する姿勢は変わらなかった。日本旅行を創業し拡大した新助と新太郎の物語は、時代の動きを読んで新たなビジネスチャンスを掴むのも重要だが、顧客満足度が高くなければ成功は長続きしないと気付かせてくれる。近年は、業務の効率化やコスト削減が企業の成長に不可欠とされるが、本書を読むと、お客さんに喜んでもらいたいという「旅行屋さん」の精神こそがビジネスを成長、発展させる原動力になると分かるのではないか。
明治22年(1889年)、東海道線の草津駅が開業した。親しかった隣村の木村熊治郎と共に用地買収に協力した南信太郎は、草津駅構内での立売営業権(駅弁などを販売する権利)を与えられる。この時、信太郎の息子の新助は四歳だった。当時の列車にはトイレがなく、乗客は駅に着くとホームで用を足していた。それを見た信太郎は、駅の近くにトイレを付けた茶店を作り〈南洋軒〉と名付け、弁当の立売も同じ屋号で行う。
信太郎と親しい熊治郎は、染色の下絵を描くのに使う青花紙を売っていたが、明治に入って青花紙の需要が減ると草津名物の竹の根鞭細工に目を付け、根鞭で西洋人向けのステッキを作り、イギリスから乳牛を輸入して牛乳の宅配を始めるなどベンチャー精神に富んだ人物だった。新助が旅行業という新事業を始めることができたのは、子供の頃から熊治郎と接していた影響もあるようだ。熊治郎が製造販売していた根鞭のステッキは、近代日本を揺るがす大事件にもかかわっているが、それが何かは実際に読んで確認して欲しい。なお熊治郎が始めた牛乳事業は、現在も草津の木村牧場で継続されている。
明治33年(1900年)、16歳になった新助は、東京外村私塾商業科に入学するために上京。折しも東京近郊では、大師電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)、成田鉄道(現在のJR東日本成田線)など、参拝客を運ぶ鉄道路線が誕生していた。新助は熊治郎からもらった軍資金で、鉄道を使って寺社仏閣に足を運び〈精進落とし〉も楽しんだ。
学校を卒業した新助は、草津に戻り〈南洋軒〉の若旦那になる。徴兵検査に合格した新助は、しばらく帰れなくなることもあり、戦勝祈願にお伊勢参りに行きたい人たちを案内することにした。明治38年(1905年)、深夜に臨時便を走らせてもらい、はぐれる人が出ないよう縄で輪を作って村ごとに入れ、伊勢の御師(寺社に所属し、参拝客の案内、食事宿泊などの手配を仕事とする人)のアイディアで案内人が尾籠だが目立つ印を持つなどしたお伊勢参りは成功する。この伊勢神宮参拝が日本初の団体旅行で、日本旅行の始まりとなった。
新助の案内でお伊勢参りに行った人たちの中から、善光寺に行きたいとの声が上がる。400人を集めると運賃が半額になると聞いた新助は、参拝者を募集し、善光寺詣での世話役の協力もあり二倍以上が集まってしまう。この人数をどのように善光寺に運ぶのか、大勢の参拝者の宿泊所や食事の用意が善光寺側でできるのか。さらに新助は、知恩院から遠忌法要のために全国から信徒を集めて欲しいと頼まれる。こうした難題を新助が斬新なアイディアでクリアしていくところが、前半のクライマックスになっている。
明治の仏教界は廃仏毀釈で大ダメージを受けていたが、新助が始めた参拝の団体旅行や法要のために全国から信徒を集める旅行が、寺の新たな収入源になり仏教存続の一助になったとの指摘は興味深い。現在も寺社を回る旅行は人気だが、その源流を作ったのが新助だったというのは新たな発見だった。
熊治郎の娘・貞と結婚した新助は、義父から受け継いだかのようなベンチャー精神で旅行業を拡大させ、社名を日本旅行会とする。ただ椅子に座るのが苦手な人のために御座敷列車を考案するなど、自ら先頭に立ってお客さんに快適な旅行をしてもらえる方策を次々と打ち出す新助の心遣いは、「旅行屋さん」と呼ばれている頃から変わらなかった。作中には、昭和初期の団体旅行の旅程表が当時の資料のまま引用されているが、現代では考えられないほどめぐる場所が多いハードなスケジュールになっている。それでも疲れが取れるよう温泉宿を挟んだり、複数の候補から行きたい名所を選べたりと、お客さんへの配慮がうかがえる。
当初、現代的にいえばインバウンド専門の旅行会社だった半官半民のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社、JTB)が日本人向けの旅行を始めてライバルになり、鉄道は軍事物資の輸送が優先され観光旅行への風当たりが強くなった第二次世界大戦など、日本旅行会は何度も危機を迎える。戦後になると、シベリア抑留を経験した新助の息子の新太郎が、いち早く海外旅行に目をつけ、旅行の主軸が鉄道からモータリゼーションへ移ると予見し自動車旅行をする人のためのドライブイン、レジャー産業の拡大を見据えてホテル、ゴルフ場、遊園地の経営も始める。近代的な企業経営者だった新太郎は、最後まで「旅行屋さん」だった新助とは経営のスタイルは違ったが、顧客満足度を優先する姿勢は変わらなかった。日本旅行を創業し拡大した新助と新太郎の物語は、時代の動きを読んで新たなビジネスチャンスを掴むのも重要だが、顧客満足度が高くなければ成功は長続きしないと気付かせてくれる。近年は、業務の効率化やコスト削減が企業の成長に不可欠とされるが、本書を読むと、お客さんに喜んでもらいたいという「旅行屋さん」の精神こそがビジネスを成長、発展させる原動力になると分かるのではないか。

