作家・宮下奈都が「忘れられない一夜」を綴ったエッセイを全文特別公開!

【『終わらない歌』文庫新装版刊行記念】作家・宮下奈都が「忘れられない一夜」を綴ったエッセイを全文特別公開!

作品紹介

2026.02.20

 本屋大賞『羊と鋼の森』をはじめ、数々の感動作を発表している宮下奈都さん、初期の傑作『終わらない歌』が、このほど装いも新たに発売されました。本作品の単行本刊行時(2012年12月)に行われた、宮下さんにとって初めてのサイン会当日のエピソードを紡いだエッセイ「決意の夜」を全文公開します。ぜひご一読ください。



 今月六日に、新刊『終わらない歌』のサイン会があった。人前に出るのは得意ではない。言いたいことはすべて小説で書いてしまう。だいたい宮下ごときのサイン会にお客さんが集まるのか。ずいぶん躊躇したのだが、結局は引き受けた。東京・有楽町駅前の大きな書店で開かれることになった。

 前夜から空が荒れていた。明け方に強風で目を覚ましたら、極度の緊張も手伝ってもう一睡もできなかった。朝、JRの特急が止まっているという。乗るはずの特急も運休になっていた。

 息子が腹痛で学校を休んでいた。急に弱気に襲われた。具合の悪い息子を置いて、悪天候の中、東京までサイン会に出かける意味がよくわからなくなった。福井駅の動かない電光掲示板を見ながら自宅に電話をかけると、寝ていたらしい息子が出た。

「電車止まってるんだけど、どうしよう」

 じゃあ帰ってくれば? といわれることをどこかで期待していたのかもしれない。でも、息子は電話の向こうで笑った。

「歩いていくしかないね」

「間に合うかな?」

「だいじょうぶだよ、きっとみんな待っててくれるから」

 大きくなったなぁと思った。息子の言葉に背中を押されるように、とりあえず動いている各駅停車に乗って東へ向かった。駅員さんの話では、新幹線は通常通り走っているらしい。敦賀まで出るつもりだったが、途中、特急が動き出したという。武生で降りて、乗り換えた。米原で新幹線に飛び乗ったあたりまでは曇天だったのに、名古屋を過ぎたあたりから晴れた。 富士山がきれいに見えた。

 東京駅で心配しながら待っていてくれた編集者たちと、有楽町の書店へ向かう。空は晴れ、街はにぎやかで、午前中のことが遠い記憶のように感じられる。書店に入ると、中央の階段にずらっと行列ができていた。東京はすごいな、何かイベントでもあるのかな、と思いながら脇を通ると、宮下さんのサイン会を待つ列ですよ、と教えられた。その瞬間の、驚き。歩いてでも来るべきだったのだ、と頭を叩かれた思いだった。

 ほんとうに大勢の人が来てくれていた。きれいなお姉さんも、学生風の男の子も、親子連れも、スーツ姿の男性も、みんなにこにこ笑っている。 『終わらない歌』を抱え、おそらくは初対面の、列の前後の人たちと楽しそうに本の話をしている。

 東京近郊はもちろん、山梨や静岡、京都から来てくれた人もいた。高校の同級生も駆けつけてくれた。大阪の大きな書店の店長さんもいた。びっくりした。各地の書店員さんたちがたくさん来てくれたのもすごくうれしかった。商売敵のはずの店で本を買い、列に並んでくれていた。私の本への激励がぴしぴし伝わってきた。強烈な夜だった。

「きっと待っててくれるから」

 息子の言葉が形になって目の前にあった。書き続けよう、と思った。書いて、書いて、書いていこう。全身全霊を込めて、いい小説を。それが私の一生をかけてする仕事だと思う。

(エッセイ集『はじめからその話をすればよかった』(実業之日本社文庫)所収)