きれいごとではない、佐藤愛子さんが見つめた人生のかたち 佐藤愛子さんを偲んで――幸福、暮らし、考え、老いをめぐる言葉たち
作品紹介
2026.06.22
佐藤愛子さんの訃報に接し、深い哀悼の意を表します。
長きにわたり、数々の作品を通じて多くの読者に言葉を届けてこられた佐藤さん。その文章には、人生を甘く見ない厳しさと、だからこそ笑い飛ばすことのできる強さがありました。
佐藤さんの言葉は、やさしく慰めるというより、読む人の目を覚まさせる言葉だったように思います。幸福も、暮らしも、考え方も、老いも、世間のきれいごとでは片づけない。怒り、迷い、諦め、可笑しみを抱えたまま、それでも生きていく人間の姿を、真正面から見つめ続けていらっしゃいました。
実業之日本社では、佐藤愛子さんの著作『こんな幸福もある』『こんな暮らし方もある』『こんな考え方もある』『こんな老い方もある』を復刊・刊行しています。本記事では、その中から『こんな幸福もある』『こんな老い方もある』に収められた文章を一部抜粋し、追悼の思いとともにご紹介します。
幸福は、言葉ではなく人生そのもので示される
最初にご紹介するのは、『こんな幸福もある』に収められた「幸福の形」からの一節です。佐藤さんは、詩人・福士幸次郎の人生と最期をたどりながら、世間一般のものさしでは測れない幸福の形を見つめています。
福士さんは毎日、病いの床から窓の向こうを眺める。窓の向こうに海岸が見え、そこに三本の松の木が立っている。夕暮になると太陽が傾き、その松の木の向こうに静かに沈んで行く。
朝、眼を覚ますと福士さんは思った。
〝今日の夕陽は、あの松のどのへんに沈むだろう……〟
右端の松か。次の松か。三番目か。病気の苦しいことも、食べもののないことも、一切の愚痴不平をいわず、今日の入日はどこに沈むかを楽しみに、福士さんは夕暮が近づいて来るのを待っていたという。
そうしてある日、死が福士さんを迎えに来た。福士さんは枕辺のお兄さんに向かって身体を起こしてほしいといい、上半身を起こしてもらって、一言いった。
「ありがとう」
そうして福士さんの息は絶えた。
二十九歳のときに福士さんは歌った。
「わたし共にもやがて最後の時が来てこの人生と別れるなら、願はくば有難うと云つて此の人生に別れませう」と。
そう歌った通りに三十年後、福士さんは「ありがとう」といって死んで行ったのだ。
この福士さんの最後を想うとき、私は福士さんは幸福な人生を全うした、と思わずにはいられない。たとえ人の目にはどう見えようとも、福士幸次郎の人生は幸福だった。
人に理解されること、人の尊敬を受けること、豊かな生活をすること、名が世に知られること、平穏な歳月を送ること……、世の中には幸福と呼ばれる形は色々あるが、こういう人生も確かに幸福のひとつなのである。
私は詩人福士幸次郎から、幸福についての一言の言葉も聞かず、その人間性、その人生によって幸福とは何かをさし示された。
私の人生にとって、そのことが最も大きな幸福の一つだったと私は思っている。
――『こんな幸福もある』
「幸福の形」より
幸福とは、外から見てわかりやすいものばかりではありません。豊かさ、名声、平穏、理解、尊敬。そうしたものとは別のところに、たしかに幸福と呼べる人生がある。
佐藤さんの文章は、安易に「幸せとはこういうものだ」と結論づけません。けれど、ひとりの人間の最期を通して、読者に深く問いかけます。人は、どのように生きれば、自分の人生に「ありがとう」と言えるのか、と。
老いを美化せず、自然に従う
続いて、『こんな老い方もある』より、老いについての一節です。
佐藤さんは、老いを必要以上に美化することも、若さにしがみつくことも選びませんでした。そこにあるのは、老いを老いとして引き受ける、きわめて率直なまなざしです。
年をとっても尚、元気で美しく楽しく過すにはどうすればいいか、女の先輩として一言、というコメントもよく求められるが、そんなことは考えたこともないから、こちらの方で訊きたいくらいである。でもあなたは声は大きいし歩くのは早いし、どこからそんな元気が出てくるのですか、といわれて気がつく。そうか私はまだ元気なのか、と。
だがこの元気は空元気なのであって、なぜ空元気が出るかというと、これは私の戦闘的な気質のためなのであろう。私は私の性分に引きずられてそうしているだけであって、意志的に元気を出しているわけではない。考えてみると空元気を出せるということはまだエネルギーが残存しているということで、やがては空元気も出なくなってしまう日がくるのだろう。だがそれは私にとっての自然であるから、それはそれでよろしいのである。
だがその時に、さあ佐藤さん、元気を出して下さいよ、前のあなたはどこへいったの、これからの年寄りは年をとったからといって引っこんでいてはダメですよ、おしゃれをして外へ出て楽しむのよ、お友達を沢山持って、恋もセックスも大いに楽しめばいいのよ、などといわれると私は困る。「引っこんでないで」といわれても私は引っこんでいるのが好きになっているのである。おしゃれをするのも面倒くさい。だから出不精になる。するとソレソレ、それがいけないのよ、それじゃ老い込んでしまいます、とお説教される。
老い込むのが何が悪い、と私は怒りたくなる。老い込むことが私の自然であればそれに従えばよいではないか。
私にとっての自然とあなたの自然とは違うのだ。七十歳になっても五十代に見え、真紅のドレスの似合う人は、それだけのエネルギー、気持の晴れやかさがあるから似合うのであって、その人が似合うからといって私が真紅のドレスを来て現れたら、ばあさんの漫才師が来たと人は思うであろう。漫才師に見えるか見えないかは、その人にとってそれが自然か、無理をしているかの差である。
本当の年齢から十も若く見えたとしても、ただ、それだけのことであって、とりたてて自慢するほどのことでもない。羨望することでもない。
――『こんな老い方もある』
「覚悟を決める」より
佐藤さんの老いへの視線は、甘くありません。「いつまでも若く」「元気に」「前向きに」という言葉があふれる時代に、佐藤さんは、それが本当にその人自身の自然なのかを問い返します。老いを否定しない。無理に飾らない。けれど、投げ出すわけでもない。この率直さこそ、佐藤さんの文章が多くの読者に届き続けた理由のひとつではないでしょうか。
書くことは、人間を理解するためのよすがだった
最後にご紹介するのは、同じく『こんな老い方もある』に収められた「書くことに支えられる」からの一節です。
佐藤さんにとって、書くことは単なる職業ではなく、人間を見つめ直すための営みでもありました。
それから十年ほど、クソミソ時代がつづいた。あの時、やっと『三田文学』に掲載してもらった作品は、「あんなものを載せるとは三田文学の恥」といわれた。
しかしいかにクソミソにいわれようと、ものを書くことは私の支えになった。わけわからず、ただガムシャラに書いた。文壇に名を上げたいなどとは夢にも思わなかった。賞を狙ったこともない。そういう栄誉は一切私には無縁の、別世界のことだったのだ。
クソミソ時代の終り頃、私は父の伝記小説を書いた。その中で私の四人の異母兄が揃って不良少年になって父と母を苦しめたことを書いた。私が三十八歳頃のことである。私は子供の頃からずっと四人の兄を批判的に見ていた。兄たちは四人ともとても面白い人で、異母妹の私を虐めたりすることはなく可愛がってくれたが、私の兄たちを見る目はいつも父母を苦しめる「困った人たち」という目だった。だから、小説の中でも「面白いが困った連中」としか書けなかった。
しかしこの頃、私はしきりに、あの頃に兄たちが耐えたであろうものを思うようになった。兄たちが耐えていると思わずに耐えていたものが見えるような気がしてきた。年をとるということのよさは、こういうことに目が向くことだ。そしてまた、そういうことに目が向くのは、私がもの書きとして生きつづけてきたおかげだと思う。
私にとってものを書くことは、人間をより理解するよすがである。何もわからずにものを書きはじめた私は、今、漸く私にとっての書くことの意味がわかった。そうでなければ私は、四人の兄を父を苦しめた存在としてしか理解せずに死んでいっただろう。もの書きになってよかったと、私は思っている。
――『こんな老い方もある』
「書くことに支えられる」より
「ものを書くことは、人間をより理解するよすがである」。
この一文には、佐藤さんが書き続けた時間の重みがあります。かつては「困った人たち」としか見えなかった兄たちの姿が、年を重ね、書き続けることで、別の角度から見えてくる。書くことによって、人間への理解が深まっていく。
佐藤愛子さんの文章が、時に痛快で、時に厳しく、時に可笑しく、それでもどこか深いあたたかさを持っているのは、人間を単純に裁かなかったからなのかもしれません。
佐藤愛子さんの言葉を、これからも
『こんな幸福もある』『こんな暮らし方もある』『こんな考え方もある』『こんな老い方もある』には、佐藤愛子さんが見つめた人生のさまざまな表情が収められています。幸福をめぐるまなざし。
暮らしの中にある人間くささ。
常識に流されず、自分の頭で考える力。
そして、老いを老いとして引き受ける覚悟。
佐藤さんの言葉は、人生をきれいごとで片づけません。だからこそ、読む人の心に残ります。佐藤愛子さんが遺した言葉を、これからも大切に読み継ぎ、また新たな読者へ届けてまいります。