アメリカ料理と英会話が「次の日の自分」を作る、大らかで楽しい物語 青木千恵(書評家)

泉ゆたか『ベティーズキッチンへようこそ』レビュー アメリカ料理と英会話が「次の日の自分」を作る、大らかで楽しい物語 青木千恵(書評家)

書評

2026.09.15

 アメリカの家庭料理といえば、何を思い浮かべるだろうか? フライドチキン、ハンバーガー、バナナ・プディング、『刑事コロンボ』が食べていたチリ……。アメリカの食卓は、肉料理やパスタ、サラダ、デザートを大皿に盛ってシェアするスタイルで、ご飯や汁物、おかずなどを一人分ずつ供する日本とは違う。ボリュームとカロリー満点のアメリカ料理と、栄養バランスに注意して薄味の日本料理は、大きく異なる食文化だ。

 本書は神奈川県の湘南エリアにある、アメリカ家庭料理&英会話の教室「ベティーズキッチン」を描いた長編小説である。
 物語は、「小包の紛失」から始まる。主人公の朝倉亜衣は、大事な家族だったトイプードルのモモを亡くし、半年前に仕事を辞めてアパートの部屋に引きこもっている。そんな一人娘を心配して、北鎌倉に住む母がモモの遺骨をダイヤモンドにして送ってくれたのだが、亜衣は“置き配”の指定にして、届いたはずの小包が見当たらない。それらしき小包を抱えた女性を追うと、女性はスーパーの掲示用ボードにポスターを貼って去り、手がかりはもはやポスターだけ。〈英語で料理を作ってみませんか?〉〈ハンバーガー、フライドチキン、パンケーキ、アップルパイなど。アメリカの本物の家庭料理を作りながら、簡単な英会話も楽しく学べます〉と書かれたポスターのQRコードからアクセスすると、五十代くらいの白人女性や料理の写真が並ぶSNSアカウントにつながった。〈--小包を持っていたあの女性は、この教室とどういう関係なんだろう〉。亜衣は、逗子の海辺にあるアメリカ家庭料理&英会話の教室「ベティーズキッチン」を訪ねてみる--。

 「べティーズキッチン」のレッスンは、月に二回、第一、第三木曜日の十一~十三時のランチタイムである。ベティ先生が暮らす海辺の一軒家に入ったら、日本人同士でも英語で話す。英語どころか日本語さえ話さない、昼夜逆転の生活をしていた亜衣は、昔から英会話が苦手で、体験レッスンでは「イエス」と「ノー」、それぞれ一度の「ハロー」と「ソーリー」しか話せなかった。教室の生徒はココさん、サニーバニーさん、ナオミの三人だけ。なぜか積極的に生徒を増やそうとしないベティ先生のもとで、三人の生徒と共に、亜衣はアメリカ料理を作り、英語を学ぶ。

 本書の魅力はいくつもあって、まずは小包の行方を追い、冒頭からぐいぐいと物語に引き込まれる。「べティーズキッチン」に通いはじめた亜衣はベティ先生や生徒たちと知り合っていくが、一人ひとり個性を持つ、魅力的な人物たちが、見事に描き分けられているのも本書の魅力だ。〈塩気と油と酸味がそれぞれはっきりと主張する〉、それこそベティ先生のマカロニ&チーズのように、登場人物の「スパイス」が個々に響きあって、美味しくて味わい深い物語になっている。

 年の近いナオミと亜衣が「正反対」な性格であるのも、この小説で大事なスパイスの組み合わせだと思う。中学一年までボストンにいたナオミは、自分の気持ちに正直だ。英語の語順のように、まずは一番言いたいことを伝え、後からそれを説明していくタイプ。一方、主人公の亜衣は、自分の気持ちを言えず、嫌われないようにふるまうタイプ。〈相手が嫌な気分になるくらいなら、その場の空気が悪くなるくらいなら、私が黙って我慢すればいいと思っている。それが一番いいと思っているのに--〉。今の自分から一歩踏み出さなければ、モモの死をきっかけに引きこもった暗闇から出られない。「べティーズキッチン」で言葉を交わすうちに、初めは明るく見えていた人にもそれぞれ、それまでの人生があったことがわかってくる。

 そして何より、本書の大きな魅力は、アメリカ料理&英会話だ。長編でも連作短編仕立てになっていて、フライドチキン、マカロニ&チーズ、スロッピー・ジョーといったアメリカ料理が章ごとに登場し、料理とエピソードを連ねながら、ひと夏の逗子を舞台にした亜衣の変化が描かれる。ベティ先生と生徒が話す英語と、亜衣の聞き取る日本語が併記されていて、初めは厳めしい直訳だった日本語が少しずつ柔らかくなる。亜衣が学ぶうちに、英語も日本語もやり取りが変化していくのを「読める」のは、この小説ならでは。

〈言語を学ぶこと。それは、もう一度人生を最初から体験することに近い〉

 料理を作る、食べる。言葉を聞く、話す。学ぶ。小さな一歩が「次の日の自分」につながっていく。二〇一六年に『お師匠さま、整いました!』で第十一回小説現代長編新人賞を受賞、デビューしてから十年。時代小説も現代小説も、知里幸恵を主人公にした『ユーカラおとめ』も描いている泉ゆたかさん自身が、言葉と小説の世界を追求して歩み続けている人ではないか。本書は、小包をきっかけに亜衣の暮らしが変わっていく、大らかであたたかい、とにかく楽しい物語だ。それぞれのこれからや、アメリカ料理&英会話を読みたくて、シリーズの始まりになるといいなと私は思っている。