英語は苦手だ。  泉 ゆたか

『ベティーズキッチンへようこそ』刊行記念エッセイ 英語は苦手だ。 泉 ゆたか

自作解説

2026.09.24

 小さい頃、幼稚園や小学校が休みの時期になると、母が働く「英語教室」に連れられて行った。

 未就学児が対象の「子供英会話」の教室だった。そこにはネイティブスピーカーのアメリカ人の先生がいて、子供たちと英語の歌を歌ったり、ゲームをしたり、絵本を読んでくれたりした。母はそこで、アメリカ人の先生と子供たちをつなぐサポート役をしていた。

 子供たちは覚えたての英語で躊躇なく外国人の先生に話しかけていた。アメリカ人の先生は衝撃的なくらいフレンドリーだ。明るく楽しい授業のおかげで、みんな英語が大好きな様子だった。

 その空間の中で、私はいつもすごく居心地が悪かった。

 アメリカ人の先生に優しく挨拶をされると、喉が固まってしまったように一言も言葉が出てこなかった。挨拶の言葉はこう言うのよ、こう聞かれたらこう答えるのよ、と事前に母から教わっていた英語の数々は、話しかけられた瞬間に完全に飛んで、頭の中が真っ白になってしまった。真っ赤になって黙り込み、隙を見てその場から逃げ出したくなるほどの恥ずかしさに襲われた。

 だからいくら母に誘われても私は決して授業に飛び入り参加はせず、教室の隅で「日本語の」本を読んでいた。

 英語をうまく話せない私は、すごく格好悪い。そんなふうに思った。

 自分よりも小さな子供たちが、妙に綺麗な発音の英語でアメリカ人の先生と話している光景を眺めていると、英語は苦手だ、本当に苦手だ、という悲痛な言葉が胸の中で渦巻いた。

 それから長い年月が過ぎ、私は受験英語をそれなりにこなした。英語は得意でも苦手でもない科目のままどうにかやり過ごした。

 学生時代が終わったとき、もう私の人生で英語を使う機会、特に話す機会はほとんどないだろうなと思った。

 実際そのとおりだった。塾講師として英語を教えたことはあったが、英文法や長文読解のコツを教えることと、英語を話すことはまったくの別物だった。

 再び英語に出会ったきっかけは、自分、そして同世代の友人たちに訪れた変化だった。

 夜更かし、睡眠不足、変な食生活、やけくそのような怠惰な暮らし、少々過剰な自己嫌悪、自らを限界まで追い詰める自己研鑽――。

 三十代半ばを過ぎた頃から、そんな不健康な若者時代はもう脱したのだと、はっきり感じるようになった。

 心地良い場所で身体を労わり、周囲の平和に気を配って、できる限り品よく心穏やかに生きる。そんな日々に憧れるようになった。これが齢を重ねるということなんだと衝撃を受けた。

 そんな中、同世代の友人たちが次々と「勉強」を始めた。語学、特に英語の勉強だ。

 彼らから、勉強をして難しい資格を取り、仕事で大きなステップアップをする、というようなぎらついた気負いは感じられなかった。

 覚えた英語を使う機会は今のところまったくない。海外旅行の予定さえない。自分でもどうして勉強を始めたのか、いまいちわからないんだけれど――。

 そんなふうに話す彼らが、おすすめのスマホアプリや、ラジオ番組、通い始めた英会話教室について語る姿に大きく心が動いた。

 すごく、すごく楽しそうだった。学ぶ喜びを心から満喫しているように見えた。

 そんな大人が学ぶ姿を、ぜひ小説にしてみたいと思った。

 私が生まれ育った逗子の海辺を舞台にした英会話教室を空想してみた。この教室で物語が始まるとすぐにわかった。わくわくした。物語が広がるにつれて、ただ学ぶだけではなく、みんなで何かを作って食べる料理教室にもしたいと思った。

 勉強をするには燃料、すなわち栄養が必要だ。カロリー爆弾のようにパワフルなアメリカ料理が食べたくなった。フライドチキンや、マカロニ&チーズ、バナナ・プディング、ブラウニーなどなど。料理本のレシピを参考に試しにそんなメニューを作ってみたら、陽気で非日常を運ぶアメリカ料理に、大いに盛り上がった。

 『ベティーズキッチンへようこそ』は、大きな喪失を経験した主人公が、仲間と共に美味しいアメリカ料理を作って、食べて、そしてほんの少しずつ英語を学んでいく物語だ。

 執筆をしながら、アメリカ人の先生と向き合った瞬間に石像のように凍り付いてしまった、幼い頃の自分を思い出した。英語は苦手だ、本当に苦手だ、と自らに言い聞かせるように心で唱えていたあの頃のことを思い出した。

 あれからたくさん年を重ねても流暢に英語で話すことができる自信は、今もやっぱりない。失敗をするのはすごく恥ずかしい。

 けれど美味しいものがあるならば、とりあえずテーブルについてみようかなと思う。仲間と助け合うことができるなら、勇気を振り絞って拙い英語を一言だけでも口に出してみようかなと思う。

 そんなおっかなびっくりの第一歩を、主人公と一緒に楽しんでいただけますと幸いです。