わたしのすみか
第10回 探し歩いた純喫茶 今村昌弘

年季が入り、座るとわずかに軋みの音を立てる椅子とテーブル。壁のあちこちに飾られた、マスターの知り合いの作だという神戸の風景の水彩画。店の奥に鎮座し、絶えず控えめな音楽を流し続ける巨大なスピーカー。時折キッチンから漂ってくるカレーの匂い。
その喫茶店は神戸の元町商店街の西端近くにある。初めて訪れたのは二十九歳の時、仕事を辞めて投稿生活を始めたばかりの頃だ。
一日中自室で作業をするのは息が詰まるため、執筆ができる喫茶店を探していた。当時の僕は投稿生活の期限を三年間と定め、その間はバイトなどを一切せずに貯金を切り崩して生活すると決めていた。そのため一日に使える食費は千円。よって店を選ぶ条件は自ずと決まってくる。
まずは飲み物が安いこと。そしてテーブルの大きさが執筆するのに十分であること。大型チェーンのカフェではしばしばノートパソコンも載せられないような小さなスペースしかないことがあるので注意が必要だ。欲を言えば、あまり店内が客でいっぱいじゃない方がいい。間近に人の目があったり騒がしすぎたりすると作業に集中できないし、回転率の高い店だと僕だけがコーヒー一杯で居座っては迷惑になる。
まとめると、安くて広くて長居できる店がよいのだ。
僕は粘り強い調査を続け、この条件に合致する喫茶店をいくつか発見していたのだが、現在そのうち三つの店がすでに潰れている。考えてみれば当然のことだ。先ほど述べた僕にとって居心地のいい店とは、つまり商売としてうまくいっていないことを意味しているのだから。
そんな中、初めて訪れた頃から変わらぬ様子で営業を続けているのが冒頭の喫茶店なのである。カフェというよりも純喫茶というべき佇まいの家族経営の店だ。なんと店ができてもう六十年にもなるという。僕が訪れるとたいてい、常連と思しき高齢の客が新聞や雑誌を広げていたり、商店街の中を三宮から歩き通した客が足休めをしていたりする。騒がしすぎず、客がそれぞれ自分の時間を満喫している空気が好きで、僕は最初のうちは週に二、三度のペースでその店に通うようになった。注文するのはいつもアイスコーヒーのシロップ入り。夏でも冬でもずっと同じ。「アイス、入り」というのが店員さんと僕の合い言葉になった。通い始めて五年近く経つけれど、たぶん他のものを注文したことはない。我ながら安い客だ。
思い出に残っているのは店に通い始めて一ヶ月くらい経った、八月のある日のこと。いつものように一時間半ほど作業をし、店を出ようと会計を済ませた時のことだ。店員のおばさんが何気なく訊ねてきた。
「お兄さん、学生さん?」
おばさんの笑顔に嫌味の色はない。純粋に気になっただけだろう。
すでにアラサーだった僕は若く見られて喜んだ、わけではなく、内心で赤面した。冷静に考えれば真っ当な社会人が週に何度も、平日の昼間っから喫茶店に入りびたれるわけがない。さすがに学生を演じるには老け過ぎていた僕は曖昧な言葉でその場を切り抜け、以後週に通う回数を一回に減らした。今となっては笑い話である。
それからなんやかんやあって、僕は約二年後に小説家としてデビューすることができた。それでもわざわざ自分から「僕、小説家なんすよ」と切り出すのも馬鹿らしい気がして、職業不詳の常連客であり続けた。
ところがある日突然、秘密は破られた。
いつものように店に入ると、僕の顔を見たおばさんが満面の笑みを浮かべたのである。
「お兄さん、すごい先生やったんやなあ」
ばれた理由は単純で、拙作の映画化のインタビュー記事が写真入りで地方紙に載っていたのだという。これまでにも全国紙の記事にしてもらったことはあるのだが、顔ばれをしたことはなかった。思わぬところで地方紙の影響力を学んだ瞬間だった。気恥ずかしく思いつつ、いつものアイスコーヒーを飲みながらプロット作りを進めていると、先ほどのおばさんがススッと近寄ってきてこう囁いた。
「音楽、うるさすぎひん? 大丈夫?」
今までそんなこと聞かれたことなかったのに! 小説家という肩書きもまた、影響力を持っていたのだ。
店は今も夢を追う僕が初めて足を踏み入れた夏と変わらず、ゆったりした音楽と新聞をめくる音で満たされている。この四月からほとんどの店で喫煙席が撤去された激動もどこ吹く風とばかりに、常連客たちは気持ちよさそうに煙草を吹かす。
僕の小説家としての一面は、こういう場所をすみかとしているのだ。
いまむら・まさひろ
1985年長崎県生まれ。岡山大学卒。2017年『屍人荘の殺人』で第27回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。同作は『このミステリーがすごい!2018』、〈週刊文春〉ミステリーベスト10、『本格ミステリ・ベスト10』で第1位を獲得、第18回本格ミステリ大賞[小説部門]を受賞、第15回本屋大賞3位に選ばれるなど、高い評価を得る。2作目となる『魔眼の匣の殺人』も好調。今最も注目される期待の新鋭。