お世話になっております
File 10. さらば、我が心のレディジェーン 新庄 耕
私がはじめて貴店をおとずれたのは、二十数年前のことです。ビールがなんとなく美味しいと思えるようになりはじめ、早く大人の仲間入りをしたいと目一杯背伸びをしていたとき、古着店巡りで毎週のように訪れていた下北沢の街に、名優松田優作の愛したジャズバーがあるとなにかで知りました。
まだ地下化も再開発もされていなかった素朴な駅舎からのびる、下北沢南口商店街のゆるやかな坂をくだりきり、右手に餃子の王将を見つつ辻を左に折れ、そこから路地をいくつか曲がったさきの茶沢通り沿いに、貴店はひっそりと明かりを灯していました。当時すでに創業から三十年近い歳月をへていた貴店は下北沢というサブカルの街の中で異彩をはなっており、それまでバーという酒場に足を踏み入れたことのなかった若者をして、その重厚な扉に手をかけるのをひるませるのに十分な風格をかもしていたと記憶しています。
門前払いを喰らうのではないかと不安に駆られながら、しかし勇を鼓して入店してみると、予想に反して快くむかえてくださったのは嬉しい誤算でした。うながされるままカウンターの端に腰かけ、そこでなにを頼んだか。すすめられたシングルモルトのロックだったか、小説で知ったマティーニだったか、バーボンとスコッチの違いも知らなかったぐらいでしたから、いまとなっては思い出せませんが、JBLのスピーカーから流れてくるジャズにひたりながら二、三杯呑み、ひどく満ち足りた気分になって店を後にしたことだけははっきりとおぼえています。それで気をよくした私は、以来、貴店にぽつぽつと顔を出すようになり、会社員を諦めて小説家を志してからは毎週のごとく通っていっぱしの常連を気取るようになりました。
贔屓の酒があるならボトルをキープした方が経済的だと教えられ、はじめてキープボトルを入れたのも貴店でした。私の指名ボトルは当時の市価で三千円そこそこで買えた白州のノンエイジでしたが、それから世界的なウイスキーブームが押し寄せて手が出せなくなり、いまはイチローズモルトのホワイトラベルを棚に置いてもらっています。
貴店が業界関係者の溜まり場として機能しているのを知ったのは、通いはじめてしばらくしてからのことです。俳優、映画監督、ミュージシャン、写真家、画家、作家、脚本家、落語家など、メディアを通じて見知っていた各界の著名人がカウンターやボックス席で何気なく酒を嗜んでいる風景は、小説家として世の中に出る機会に飢えていた私にとってちょっとしたものでした。
私はひとりカウンターの空いた席に座り、黙ってウイスキーを口にしながら、紫煙と文化の香りにみちたその空間で繰り広げられる周囲の会話に、じっと耳をかたむけていました。そうして大人の振る舞い方をひとつずつ学んでいったように思います。
通いはじめて十年が過ぎ、三十代に差し掛かろうかという頃、さまざまな幸運にめぐまれて小説家としてのデビューが叶いました。それをきっかけに、貴店のオーナーである大木さんに声をかけてもらうようになり、多くの縁をつないでもらいました。その中には、かけがえのない友となった人もいます。たとえば、作家梁石日氏の長男であるタミオさんがそのひとりです。元用心棒ながら文学青年のタミオさんは、私より二十も年長のうえ、シャイで寡黙な性格でしたから、おそらく貴店の常連同士でなければ言葉を交わすことはなかったでしょう。幾度も二人で痛飲して夜を明かしたタミオさんも、数年前にこの世を去りました。出会いのみならず、別れもまた貴店で学んだことなのかもしれません。
小説家はデビューする前よりもデビューしてからの方が大変だというのはしばしば聞かれることですが、私もご多分にもれず、困難の時代がつづきました。書けども書けどもボツを喰らい、ようやく本にしてもらえても少しも売れず、反響もない。貴店のカウンターに仏頂面をぶら下げ、一線で活躍するほかの客に複雑な感情をいだきながら、ウイスキーとともに苦汁をなめて過ごしたあの時間は、かろうじて小説家をつづけられているいまの私の原動力となってくれています。
これからもまだまだ、いつものあのカウンターで、なんとか〆切を抜け切った安堵の酒や一行も書けなかった苦渋の酒を呑みつづける腹づもりでいましたが、今年の春に貴店が半世紀かかげてきた看板を降ろすことを知りました。いつまでもそこにあると勝手に思い込んでいただけに、世界の一部が欠けてしまったような心模様です。これから私はどこへ行けばいいのかと途方に暮れそうになりますが、しかしその答えは、これまでさんざん貴店から学んできた中に埋もれているにちがいありません。
五十年間、お疲れ様でした。
大変お世話になりました。
ありがとうございました。
しんじょう・こう
1983年、東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。2012年、第36回すばる文学賞を受賞した『狭小邸宅』にてデビュー。24年、『地面師たち』がNetflixにて実写ドラマ化され、ベストセラーに。続編『地面師たち ファイナル・ベッツ』と、前日譚を描く『地面師たち アノニマス』を刊行。その他の著書に『ニューカルマ』『カトク 過重労働撲滅特別対策班』『サーラレーオ』『破夏』がある。