10月の文庫新刊『堕落男』によせて
私の仕事 草凪 優
官能小説家としてデビューして10年、単著の文庫を100冊以上書いてきた。
『堕落男』で光栄にも解説を引き受けてくださった池上冬樹さんは、草凪優の作品は官能小説のジャンルからはみ出している、というようなことを書いてくださった。
これ以上ないお褒めの言葉なので、そこに噛みつくのもどうかと思うが、私自身の実感は少し違う。
活字のエロスの歴史をひもとけば、富島健夫、川上宗薫、宇能鴻一郎といった官能小説のメインストリームと、そのカウンターとして登場したフランス書院、マドンナメイトといったポルノ専門文庫の興隆があげられる。
このふたつの対立構造は重要だ。
小説の1ジャンルとして確立された官能小説と、性描写だけを特化させたポルノ専門文庫は、たとえば、にっかつロマンポルノとアダルトビデオの関係に似ているかもしれない。
映画からビデオへというメディアの趨勢もあり、にっかつロマンポルノは滅び、アダルトビデオの時代がやってきた。いまなお続いていると言っていいと思うが、活字の世界でも状況は酷似している。
現在「いわゆる官能小説」とひと括りにされている活字のエロスは、実はそのほとんどすべてがポルノ専門文庫が発明・発達させたイディオムを使い、パラダイムから抜けだせないでいる。性描写だけを特化させること以外、なにも考えていないと言っていい。
もちろん、私自身もその例にもれないのだが、ずっと違和感をもちつづけていた。
ポルノ専門文庫の興隆が、活字のエロスを広く普及させた歴史的事実を認めないわけにはいかないにしろ、その存在はあくまでカウンターであり、メインストリームに対する傍流なのだ。
そこには小説としての広がりも奥行きもありはしない。むしろ、ないからこそ価値がある。日陰にあってこそ底光りする、変態性欲者の執念みたいなものなのである。
しかし私は、小説として広がりも奥行きもある活字のエロスを渇望してしまう。
私の今後の仕事は、官能小説を傍流からメインストリームに戻すことに力点が置かれることになるだろう。官能小説というジャンルからはみ出しているのではなく、私こそが官能小説の王道を行く者であるといずれ宣言したいと思う。たったひとりしかいなくても、ジャンルを正当に背負っているのは私のほうである、と。
昔はよかったと言いたいわけではない。
現在、富島健夫の小説を読もうとしても、私にはとても読めない。そこに描かれている時代を知らないから、感情移入がまったくできない。
エロスは時代とともにあり、時代と離れて生きてはいけない。
事実、富島健夫の言葉はすでに死んでいる。
逆に言えば、その言葉は作者とともに生きていたということだろう。生きていたからこそ、死ぬことができたのである。
見事なものだと思う。
私も時代に息づくエロスを丹念に拾っていき、いまだけに輝く官能小説を書いていきたい。