11月の新刊『柳は萌ゆる』刊行に寄せて
東北の地で問われた“日本百年の計” 平谷美樹
幕末の盛岡藩に楢山佐渡という若い加判役(家老)がいました。
佐渡は、戊辰戦争末期に藩論を佐幕と決し、総大将として新政府側についた秋田藩に攻め込みます。そして戦は新政府軍に敗北し、全ての責任をおって三十九歳の若さで刎首となった男です。
辞世の句は、こうです。
花は咲く 柳は萌ゆる 春の夜に
うつらぬものは もののふの道
時は移ろっても、もののふの道は変わることはない。わたしはその道を進んでいく――。そのように解釈されてきました。
素晴らしい加判役であったという評価がある一方、「時流を見極められず、古くさい報恩の思いから、盛岡藩を危機に陥れた愚かな加判役」という評価も聞きます。
地元盛岡でも、佐渡に関する評価は二つに分かれます。
数年前、楢山佐渡を主人公にした小説を書こうと思い立ち、資料を集め始めました。その時点で、わたしには前述した程度の知識しかありませんでした。
調べるうちに、面白い資料を見つけました。
嘉永六年(一八五三)に盛岡藩の沿岸部、三閉伊地方で起きた大きな一揆の研究書です。〈三閉伊一揆〉と呼ばれるその暴動は、一万六千人余りの農民、漁民、町人が蜂起し越境して仙台藩を巻き込み、盛岡藩に税の軽減や藩政の改革を要求しました。隣藩を仲介者に使い、一揆勢は多くの要求を通し、首謀者を処罰しないという約束までとりつけて、勝利を勝ち取りました。日本の歴史の中でも希有な例です。
一揆終息に至るまでの交渉で、一揆勢は盛岡藩の役人に、「仁政を垂れた加判役らを罷免するような藩には帰れない」という趣旨の言葉を述べます。
その「仁政を垂れた加判役ら」の中に、楢山佐渡がいました。一揆勢にまで、優れた加判役として認められていたのです。
佐渡の功績を語る上で必ず出てくるのが、贅沢三昧で財政を逼迫させたと言われる三十八代盛岡藩主南部利済と、お側衆の石原汀、田鎖茂左衛門、川島杢左衛門です。石原らは〈三奸〉と呼ばれました。
佐渡は彼らの悪政を正すために尽力したとされているのですが――。
歴史は勝者によって語られますから、新政府側の立場で書かれた書物の楢山佐渡の姿は、時勢に追いつけなかった古い考えの愚将です。また、岩手の歴史の中では、藩主の座を追われた利済や石原らは盛岡藩を貧困の中に陥れた悪漢として描かれます。
資料を読み進めるうちに、色々な疑問が涌いて来ました。
果たして佐渡は愚かな加判役であったのか?
果たして佐渡は〈もののふ〉の鑑であったのか?
本当に南部利済は悪政を布いた藩主で、石原らは三奸であったのか?
そして、少し見方を変えてみると、がらりと様相が変わって見えることに気づきました。辞世の句の意味もまったく異なる解釈が成り立つのです。
佐渡は、秋田との戦を決心する前に京都に赴き、西郷吉之助(隆盛)や木戸貫治(孝允)、岩倉具視らと会見した上で「薩長の尊皇は真の尊皇にあらず」と判断し、奥羽越列藩同盟の一員として秋田藩との戦を決するのです。
佐渡の藩政改革についての様々なアイディアを見ると、けっして愚かな人物ではないことがわかります。その佐渡が、新政府の重要人物たちからその思想を聞き、それでも旧幕府軍についたのは、それなりの理由があるはず。
わたしは小説の中で佐渡に「薩長に日本を渡してしまえば百年、二百年の計を誤る」という意味のことを語らせました。
薩長が日本の頂点に立った時から百五十年。果たして世の中はどのように変わったでしょうか?
地方にもよりますが、戊辰戦争は住民の心に大きな傷を残し、その子孫の代になっても未だに恩讐は消えていません。
それは、遥かな昔から今日に至るまで「都合の悪いことは何事も曖昧なままに終わらせる」日本という国の体質であるようにも思います。
今の日本の姿が、百年、二百年の計を誤った結果でなければいいのですが。