J_novel+ 実業之日本社の文芸webマガジン

4月の文庫新刊『密告はうたう』刊行によせて
オマエ、最近ちゃんと聴いてんのか? 伊兼源太郎

share

twitterでシェアする facebookでシェアする

2016年の年末、非常にもやもやしていた。本作のタイトルが決まらなかったからだ。仮タイトルはある。他にもいくつか考えてみた。でも、いずれも何かが違う。よく言えば、吟味に吟味を重ねてこだわり抜こうとしている、となるのだろうが、実際は単なる実力不足に過ぎない。

担当編集者と諸々の相談を行う日は迫っていた。当然、タイトルも提案しないとならない。ただし、開き直る自分もいた。下手の考え休むに似たり。どうせ煮詰まってんだからと思考を放棄して、ひとまずテレビをつけた。あと数日で大晦日だったので、放送されていたのは紅白歌合戦の特集番組だった。ぼんやり眺めていると、2016年の出場者が何を歌うのかが気になり、調べた。すると、ある一曲が目に飛び込んできた。

天城越え――。いわずと知れた、石川さゆりさんの名曲。

その時、脳裏に蘇る記憶があった。

私は大学卒業後、新聞社に入った。今もそうなのだろうが、一般紙の一年生記者は地方に赴任し、警察取材担当になる。ひと言でまとめると、大変だった。夏のある日、疲れ果てた末にうつむいて所轄署の廊下を歩いていると、おい、と声をかけられた。

「まあ、色々大変だろうけど、飲めよ」

見覚えのない年配の警察官だった。差し出されたのは冷たいコーラ。ありがたく受け取った。その方を、本稿では仮にSさんとしておく。その日から、何となくSさんと会話を交わすようになった。といっても仕事の話はほとんどせず、雑談ばかりに花が咲いた。――あの店のチャーシューメンはうまいぞ、もっと本を読めよ、盆栽ってのは奥が深くてなあ。中でも一番会話が弾んだのが、どんな音楽を聴いているのかという話題だった。Sさんは洋邦ジャンルを問わずに様々な曲を聴いていたのだが、一番のお気に入りが石川さゆりさんの『天城越え』だった。

記者二年目、私は警察担当から外れたが、忙しさは変わらず、Sさんとも疎遠になった。そして三年目の春、他県への異動が決まった。すぐにSさんにも伝えた。「よし、飲むぞ」。いつもより大きな声が返ってきた。

焼肉の後、数軒の居酒屋を梯子した挙げ句、最後はSさんのご自宅になだれ込んだ。そして『天城越え』をBGMに問われた。

「オマエ、最近ちゃんと聴いてんのか? この曲を、って意味じゃなくて、音楽全般をって意味だぞ」

その日は不思議と音楽の話をしていなかった。いえ、と私は正直に答えた。雑務に追われて時間がなかったのだ。

「じゃあ、明日からちゃんと聴け。マズイ状況になる」

「どうなるんですか」

「勘が鈍る。音楽を聴くってのはな、耳の鍛錬だ。鍛えられた耳は物事の本質を聞き逃さないんだよ。俺やオマエの仕事じゃ、大事な点だろ? 世の中のありとあらゆるもんが、うたってんだ。それを聴ける耳を持て」Sさんはニタリと笑った。「ちょっとキザか?」

「ちょっとどころか、かなり」

タイトルに「密告」という言葉を使うのだけは決めていた。物語の根幹に関係するからだ。

紅白歌合戦の特集番組を横目に、私は「密告はうたう」とノートに素早く書いた。思いついてしまえば、内容にもぴったりだ。物語のうたを聴けた、と感じた。小説家にも、いい耳が必要なのだろう。

数日後に他のタイトル案とともに担当編集者に示した。特別アピールはしなかった。他がどうあれ、結局はこれになると思っていたからだ。案の定、決まった。

Sさんにもお知らせしたいところだが、それは叶わない。だから、本稿でSさんとの思い出を書くことにした。

※本エッセイは月刊ジェイ・ノベル2017年4月号掲載記事を転載したものです。

関連作品