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6月の文庫新刊 春口裕子『悪母』作品解説
自分の心の奥底にある「悪気」。これは異世界の話ではない――  藤田香織(書評家)

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くだらない。イライラする。ウザい。ムリ。


本書『悪母』を読みながら、登場人物たちにそんな思いをまったく抱かなかった、 という人は、おそらく皆無だと思われます。

バツイチ独身、子供を産んだことも育てたこともないゆえに、「ママ友」という関係性とは無縁のまま五十歳を過ぎた今に至るまで生きてきた私は、正直、物語の途中まで何度となく「バカじゃなかろうか」と思いました。そこまで無理してつるまなくても、一人だっていいじゃないか。ぼっち上等! だとは思えないの? と。


そもそも二〇一六年六月に発売された本書を手にしたのは、単純にデビュー以来読み継いできた春口裕子さんの約八年半ぶりの新刊単行本だったから、という理由で、帯にも記されていた「ママ友」なる言葉に特別な興味や関心を持ったわけではありませんでした。「〇〇ちゃんママ」と呼ばれたこともなければ、友人にアポなしで自宅に押しかけられたこともない私にとって、ママ友小説は、いってみれば警察小説と同じような距離感。身近にあるとは知っていても、自分はその世界の住人ではないから、深く考えることなく呆れたり、鬱陶しすぎる! と嫌悪したりすることができた。空調のきいた部屋でコーヒーを飲みながら、警察ってほんっと大変ですなぁ、と思うのと同様に、ママ友ってほんっと面倒くさっ! と眉をしかめていられたわけです。


でも、だけど。

六話からなる連作形式で描かれた本書を読み進むうち、これは決して異世界の話ではない、と、うっすらとした怖さを感じるようになっていったのです。

どうしてそこまで。なぜそんなに。疑問に感じる一方、凄まじい勢いで自分が過去に経験した「友だち」との関係性における躓きや失敗が蘇ってきて、苦いものが込み上げてきた。知ってる。ママ友はいないけど、私はこの感情を知っている ――。

そう思った人もまた、決して少なくはないはずです。


作者初の連作短編集となった本書の主人公は、岸谷奈江三十五歳。夫である晃一との間に生まれたひとり娘の真央は十一月で三歳になり、来春入園する幼稚園を探していました。ところがある日、ママ友たちと誘い合わせ、候補にしている園へ見学に赴くと、グループのリーダー格で「姐さん」と呼ばれている長谷川佐和子と奈江だけが園長から呼び止められ、一通のメールが届いている、と聞かされる。印刷された内容に目を通すと、そこには佐和子と奈江、そして「くるりママ」こと山中みゆき、「杏ママ」こと石井京香と、それぞれの子どもたちの名があり、かつてこの者たちにより悪質な苛めを受けた挙句、家族崩壊に追い込まれたと詳細が記されていました。園に警告を促す、匿名の告発文。奈江はその朝、宅配便で送られてきた汚物を思い出し、何者かが自分に明確な悪意を持っていることを自覚します。


いえ、「何者か」ではありません。奈江にはその心当たりがありました。自分や佐和子を含む四人が「苛められた」と訴えられる理由。第一話「招かれざる客」では、時を遡り、約二年前に彼女たちの間で何が起きたのかが描かれていきます。

どうすれば良かったというのか。何が正解だったのか。答えは見つけようにも見つからず、かつてのママ友・坂田広美の存在は、拭いきれないシミのように奈江の心の奥にあり続けていました。けれど、現実にはそれを気にしてばかりもいられない。

第二話の「毒の葉」では、広美が送ったと思われる中傷メールによって、軒並み近隣の園から入園を拒否された結果、ようやく入園させることができた幼稚園で、奈江はまた別の悪意を突き付けられます。さらに、娘・真央がその幼稚園の卒園を迎えた第三話「一緒がいい」では、小学校のお受験絡みの泥沼に足をすくわれ、第四話「難転」では真央の友だち関係を通じてのご近所トラブルに巻き込まれ、第五話「ウチの子が主役」では運動会でPTAボランティアとしてトイレ巡視係を務める最中、惨酷な事件の第一発見者となってしまう。

だからってそこまでする? これって典型的なモンペだよね。常識なさすぎ、自分勝手すぎ。過干渉、バカ親、毒親。奈江が対峙することになる「悪意」をもった「ママ」たちに思うことは多々ありましょう。加えてそのイライラやモヤモヤが、主人公である奈江に対しても感じずにはいられなくなるのが作者である春口さんの巧さ。


これまでにも『女優』(幻冬舎→幻冬舎文庫)、『ホームシックシアター』(実業之日本社→改題『隣に棲む女』実業之日本社文庫)、『イジ女』(双葉社→双葉文庫)など、読者にとっては痛痒くも目を逸らせない女性心理を描き(&搔き)続けてきた春口さんですが、本書の鍵となるひとつに「悪」とは何を指すのか、という問題があるように私には思えます。


人の顔色ばかり気にしすぎじゃない? 〈黙って見守った〉って何なの? 自分では何も決められないの? ペーパードライバー教習にでも行けばいいのに。何ひとつ責任を引き受けようとはしないのに、不満だけは一人前だよね。奈江に対しては「被害者面」という言葉さえ頭に浮かんでくるわけですが、攻撃的な悪意を他人に向けるような人物ではない故に、どうも責めきれない。犯罪行為や迷惑行為に手を染める(という自覚さえない場合も含めて)ママ友は「悪」だと言えても、奈江は明らかな「悪」とは言いきれません。けれど、良し悪しで言えば、奈江にだって「悪い」ところはある。この微妙な匙加減が、読者の心をざわつかせるのです。

そして迎える最終第六話の「絶対契約」では、奈江の胸に残り続けていたあのシミが、ゆらりと浮かび上がってくる。この結末をどう受け取るか。共感が勝るのか、恐れが勝るのか、憐憫か侮蔑か。読者によって読後感は異なるに違いなく、その「人によって違う」ことに、より思いが深くなる。くるりママならずとも本当に「そんなんでいいの?」と奈江に問いたくもなるけれど、彼女に示せる正解は、私の手の中にはない、とも思い至るのです。


たとえば、もし私が奈江に、一日何度もおむつを替え、食事を与え、泣いてはあやし、いつでもどこでも目を離さず手を引いて、子どもを育てる日々の息苦しさや緊張感を語られたとしたら。「大変だね」と言いながら、心の片隅で「そうは言っても、専業主婦なんだから(それぐらいちゃんとしなよ)」と思ってしまうに違いありません。子どもが喋った、立った、歩いた、といったLINEが平日の日中に送られてくれば、それくらいのことで一々連絡してこないでよ(こっちは働いてるんだから)、とイラついてしまうかもしれない。そして、その気持ちは、言葉にしなくても、恐らく奈江に伝わってしまうでしょう。


立場の違う友人には話しても伝わらない。どうせ理解されないだろうと思えば話せなくなる。けれど、同じ立場である「ママ友」は細々と説明しなくても、すぐに気持ちを理解し共感してくれる。違う場所に立っている人にとっては些末な、「くだらない」と思われそうな毎日の喜怒哀楽を受け止めてくれる。それがどれほどの救いになるのか想像するのは難くないのに、私は本書を読むまで、そんな想像をしようともしなかったのです。そう、奈江たちが生きているのは、「近くて遠い」自分とは別の世界、だと思っていたから。


で、ありながら。穿った見方かもしれませんが、私には「ママ友」という言葉には、「自分で選んだ友達じゃない」というニュアンスが含まれているようにも感じます。子どもを介して知り合った、様々な事情で、自分の意思とは関係なく親しくしている(せざるを得ない)関係性=ママ友であって、それは「私の友達」ではない、と心のどこかで思っているような。もちろん、そうした仲から本当に親しくなる人もいるでしょう。子どもを伴わずとも付き合うようになれば、もう「ママ友」とは呼ばず、「もともとはママ友だったんだけどねー」といったニュアンスに変化していく。奈江は初めて会ってから九年経っても杏ママ、くるりママと呼ぶ一方で、広美は最初から奈江を真央ママとは呼ばず名前で呼んでいるのも、「ママ友」と「私の友達」という意識の違いのようで、地味に効いています。


本書は確かに、ママ友の嫌らしさや愚かさ、恐ろしさを、容赦なく描いたサスペンスです。けれど、さもありなんと距離を置いて、「あるある」「いるいる」と見ていた「悪」が、自分にはまったくないと言い切れる人は、果たしてどれくらいいるのか。目を逸らしてきた自分の心の奥底にある「悪気」を自覚せざるを得なくなる。本書の怖さの肝は、そこにあるのです。


最後に。ママ友と友達、悪意と悪気、そしてもうひとつ、本書を読んで考えさせられたことがありました。描かれている九年という時間のなかで、奈江は二十四時間三百六十五日見守り続けてきた、自分がいなければ生きていけないと信じて大切にしてきた真央が、手から離れ、意思を持ち、自分とは違う道を歩き出していくことを経験します。

何かの、誰かのためにととらわれすぎれば、別の何かから目を逸らすことになりがちで、「子どものため」という大義名分を失えば、見ないふりをしてきた物事を突き付けられることになる。そしてそれは、親子関係だけに限ったことでもありません。

仕事のため、会社のため、夢のため、夫のため、家族のため、恋人のため。自分に言い聞かせながら必死で守ってきたものを手放す日は、誰にでもやって来ます。


そのとき、不安でぐらぐらと揺れる心を、自分なら何で支えるだろう。差し出された手を振りほどく勇気があるのか ――。これはもう、異世界の話ではないのです。

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