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6月の文庫新刊『黒闇』刊行に寄せて
小説『黒闇』の始まり 草凪 優

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きっかけは『堕落男(だらくもの)』だった。

文庫で上梓したこの小説のカバーデザインを手がけてくれたのが造本家・町口覚(まちぐちさとし)さんで、町口さんと縁の深い写真家・野村佐紀子(のむらさきこ)さんの作品を使用させていただいた。同世代であるおふたりの仕事ぶりに刺激を受け、ものすごくテンションがあがった。
その後、町口さんが手がけた野村さんの写真集を、執筆の合間によく眺めるようになった。なかでも気に入ったのが、『黒闇』だった。B4くらいある大型本で、モノクロの作品ばかり集めたものだ。

不思議な写真集だった。写されたものの輪郭が曖昧で、とても暗い。テーマが暗いのではなく、影の部分が多すぎて、なにが写っているのかよくわからない作品も散見する。暗いというより黒いと言ったほうが正確かもしれない。

一枚一枚の連続性は希薄だ。ヌードだったり風景だったり、日常の延長線上にあるひとコマを切りとった写真が並んでいるのだが、わかりやすいテーマを見いだすことはできない。なにもかも抽象的であり、写真家も造本家も物語を拒否しているかのようだ。

さらに、被写体を正確に写し撮ろうという意志はほとんど感じられず、こう言ってよければただぼんやり眺めているようで、見れば見るほど物語はズタズタに寸断されていき、戸惑いと混乱だけが残される。

たとえば、見開き二ページがほぼ真っ黒な作品がある。かすかに葉脈のようなものが左上に見え、真ん中に小さく光るものがある。いくら見ても、なんだかわからない。なぜこの一枚に、大切な写真集の一角を担わせるのか、普通に考えたら理解不能と言っていい。
ただ、ページをめくっていると、感じるものがある。

野村さんが世界と向きあう視線のあり方、アティチュードのようなものが伝わってくるのだ。それがどういう種類の視線であり、姿勢であるかを論じるには、門外漢の私では力不足だし、作品と対峙した一人ひとりの中にあればいいとも思う。

私の場合、それに気づいた瞬間、ズタズタに寸断されているはずの物語が生気を帯びて立ちあがってきた。

小説のストーリーを思いついたということではない。そうではなく、黒いインクばかりを気前よく使っているページをめくっていき、ますます輪郭が曖昧で人も物も風景も闇に塗り潰されているかに見えるページに辿りついたとき、それを見つめている野村さんの視線と出くわすのである。野村さんは、カメラを構えてたしかになにかを見ているのだ。

そんなふうに闇の向こうを見てみたいと思った私は、『黒闇』というタイトルを拝借して小説を書きはじめた。

セックスをテーマにした小説を書いている私にとって、闇とはオルガスムスであり、オルガスムスは死のメタファーである。必然的に、死の向こう側を見つめる作品になった。

娯楽小説としてどこまで成功しているかは読者様のご判断に委ねるしかないが、これまで書いてきた官能小説からは一歩も二歩も進化し、深化もした作品であると自負している。
町口さんと野村さんには、今回の装幀でも大変お世話になった。初のハードカバー作品を、これほど美しく仕上げていただいたことに感激するしかない。

また、『黒闇』というタイトルは元々、野村さんの師匠であられる荒木経惟(あらきのぶよし)氏がつけてくださったものだという。小説の完成後、その話を野村さんからうかがったとき、「写真時代」全盛期に思春期を送った者として、興奮を禁じ得なかった。

アラーキーの実質的な処女写真集、『センチメンタルな旅』の私写真家宣言を思いだす。

「もう我慢できません……こうでてくる顔、でてくる裸、でてくる私生活、でてくる風景が嘘っぱちじゃ、我慢できません……」

私も現在流通している官能小説全般について、同じような思いを抱いている。

※本エッセイは月刊ジェイ・ノベル2015年10月号掲載記事を転載したものです。

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