10月の新刊『花の命は短くて…』によせて
三婆(さんばば)の教え 越智月子
昔からそばが好きだ。
日本酒をお供に本格手打ちそばもよいけれど、駅のホームや改札付近にある、立ち食いそば的な店により魅かれる。
濃いダシにちょっと伸びた小麦粉多めの茹で麺。王道からはかなり外れている。でも、なぜか定期的に食べたくなる。早い、安い、満足!これぞジャパニーズファストフードの魔力か。
家にいるとゴロゴロして仕事が少しも進まないので、平日は一駅か二駅、遠征してドトールやエクセルシオールで原稿を書くことにしている。2~3時間なんとか粘って家路につく。小腹がほんのり空いたなあと思いつつ、駅の改札をくぐる。どこからか濃いダシの匂いがほんわり漂ってくると、もうダメ。抗えない。ふらふらと店に誘いこまれて、券売機の前に立つ。押すボタンはいつも決まって月見そば。茹で上げたそばに卵を落としただけ、このシンプルさがたまらない。
先日も駅中のそば屋に立ち寄った。いつも座る奥の席には、おばあさんの後ろ姿が三つ。うーん、惜しい。あそこがいちばん落ち着くのに。仕方なく、その手前に腰を下ろす。二つ隣には学生に毛が生えたくらいの男子が座っている。耳にはイヤホン。器に顔を突っ込むようにしてそばをすすっていた。
ズーーーズズッ。
ズーーーズズッ。
ズーーーズズッ。
聴いている音楽にあわせているのか、駅そば歴の長さの証か。笑えるくらい正確なリズムにあわせて、こちらもそばに七味を振りかけた。
満月みたいな卵に箸を入れたところで背後に座る三婆の話が聞こえてきた。
A婆「あー、食べた、食べた。おいしかった~。あたしね、ずっと憧れてたの、駅のこういうおそば屋さんに。前から一度食べてみたいと思ってたのよぉ」
B婆「そうよねぇ。立ち食いそばなんてサラリーマンが食べるもので、あたしには一生縁がないもんだと思ってた。だいたいさ、立ち食いって言っても、立たなくていいのね、寛げるのね。知らなかったわ~」
C婆「メニューもかけそばだけかと思ってたら違うのね。案外イケるし。でもねぇ、まさか、このあたしが立ち食いそばを食べるなんて。ふふ、お父さんが知ったら驚いちゃうわ。これからはあたし、一人で入っちゃおうかしら」
よっこらしょっ。
めでたく駅そばデビューを果たした三婆は立ち上がった。
グレー、ベージュ、アイボリーというより、ねずみ色、黄土色、象牙色と言ったほうがしっくりくるテロテロ巣鴨ファッション。ちょっとだけ地肌が目立つ後頭部に前かがみのまあるい背中。推定年齢73歳。着物の展示会の帰りか何かだろう。お揃いの和柄の紙袋を持っていた。
「ご馳走さまぁ、ほほほぉ」「また来まぁす」「んとに、おいしかったぁ。ありがとう」三婆は若々しい声を残して店を後にした。
たかが駅そば、されど駅そば。
よっぽど楽しかったんだな。
誰が言い出しっぺなのかはわからないけれど、思わぬ駅そばデビューが三婆たちの心の美容液になったのは間違いないようで。無彩色の老婆たちがぱっと花開いたみたいに華やいで見えた。
そう、この感じ。
夢見る頃をとうに過ぎても、衰え知らずの花咲く力。
花の命は短くて、あっという間に年を取ってしまう。滅入ることを数えたらキリがないけれど、若い頃はあんなに楽しかったのにと嘆いているばかりじゃつまらない。三婆みたいに日々起こる小さな変化や冒険にわくわくする自分を忘れさえしなければ、毎日は案外楽しい。
朝咲いて夕方萎んでしまうかもしれないし、七分咲きや五分咲きかもしれない。でも、いくつになっても必ず花は咲かせられる。
ズーーーズズッ。
ズーーーズズッ。
二つ隣の男子は大盛りを頼んだみたいだ。変わらぬリズムをBGMに、濃いダシの上に浮かぶ月のかけらをすすった。