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友だちになるとき 朝倉かすみ

2月の文庫新刊『ぼくとおれ』刊行に寄せて
友だちになるとき 朝倉かすみ

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短大を卒業して、しばらくのあいだ、フリーターをしていた。それまでアルバイトの経験はほとんどなかった。あったとしても、新発売のガムの試供品を配るとか、そういう単発のバイトばかりで、おまけに、つねに友だちと一緒だったから、同僚や先輩と接する機会がそんなになかった。あるにはあったが、わたしの話す相手は同年代にほぼかぎられた。わたしのおこなったバイトは、学生にしか募集をかけないものばかりだったのだ。

ひとりでバイトを始めたら、さまざまな年代のひとたちと触れざるをえなくなった。社会というところには、大人が多いな、と思った。というか、大人ばかりじゃないか、と。

ことに、男の大人の多さにうろたえた。もちろん大人の女も多かった。けれども、歳はちがえど同性ゆえ、なんとはなしのなじみがあり、さして気にならなかった。女子校育ちではなかったのだが、幼いころから、母の友人や近所のおばちゃんなど、歳上の女たちに話しかけられていたせいだと思う。

男の大人の多さに息を飲んだのは、オフィス街にあるビルの八階に事務所をかまえる会社で事務員のバイトをしていたときだった。昼休み、なんの気なしに窓から下をながめたら、大勢のおじさんたちが、そこここのビルの玄関から、一斉に出てきたのだった。全員、同じようなスーツを着ていて、八割方、頭髪が薄く、なにかこう、圧巻だった。中学生や高校生時代に、こっそり「ハゲ」と笑っていた、ねずみ色や紺色のスーツを着た教師が、こんなにたくさんいるなんて、と、心底驚いたものである。

ふいに、いままで過ごした学校というところは、「同世代の者ばかりが集まる場所」だったのだ、と気づいた。

その気づきは、初対面の大人に歳を訊かれるケースが増えるにつれ、確信に変わった。最初は、なぜ、こんなにわたしの歳を訊きたがるのか、といぶかしんだ。学校のなかで、歳を訊かれることはまずなかった。訊くとしたら誕生日だ。歳の話題といえば、せいぜい早生まれだから干支(えと)がちがう、とかその程度。わたしは、家から外に出て、そこで話をする相手の年齢を考慮したことがなかった。自分の歳を意識したこともなかった。

すっかり中年女になったわたしは、知り合った若いひとに歳を訊く。いや、中年になる前から ――社会人というものに慣れたころから ――知り合ったひとと年齢を確認し合うようになっていた。

同世代だったら、なんとなく嬉しい。同い歳と聞いたら、なぜか、もっとうれしく、誕生年まで訊ね、「あー学年はちがうね」とか言う。言っちゃう。「頭髪が薄くなり、ねずみ色のスーツを着たおじさん」は、もはやわたしと同世代だが、やっぱり「学年はちがうよね」とか嬉しそうに言う。

学校という場所にいたころと同じような感覚になるのだ。歳はとってしまったが、わたしたちは見かけほど大人ではない、と思う瞬間のひとつである。さらに流行ったドラマやヒット曲や記憶に残る出来事などを「あった、あった」と語り合っていくと、知り合って間もないのに、古くからの友人のような気がしてくる。

でも「気」がするだけだ。親しみは感じるけれど、同世代というだけで友だちにはなれない。もっと、いろいろな話をして、そのひとを知らなければ、そして、相性がよくなければ、友だちにはなれない。

深く知り合っていく過程で、わりあい大きな位置をしめるのが、そのひとがどういう人生を送ってきたか、ということだろう。そのひとの個人的な歴史をじょじょに知っていき、自分のなかで、そのひとの像ができる。

個人的な歴史は、決して時系列には語られない。「あ、そういえば」みたいな感じで、そのひとにとり、印象的な出来事がアトランダムに語られる。

『ぼくとおれ』でも、ふたりの主人公は、彼らにとって印象的な出来事をアトランダムに語る。友だちになっていくように、ふたりの個人的な歴史を知っていってくれたらいいな、と思う。相性がよかったら、もっといいなあ。

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