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廃線の町を十津川警部が奔走するメモリアルなミステリー 山前 譲(文芸評論家)

4月の文庫新刊『札沼線の愛と死 新十津川町を行く』作品解説
廃線の町を十津川警部が奔走するメモリアルなミステリー 山前 譲(文芸評論家)

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まっ白な雪原を一直線に延びる鉄路と、そこをのんびりと走っていく一両のディーゼルカー ――冬の北海道では珍しくない光景である。ロマンチックで旅心を誘われるかもしれないが、地元住民には切実な問題がそこに潜んでいるのだ。車内をのぞき込めば乗客の少ないことに気づくだろう。このままでは廃線……。

札沼線もそんな危機を抱えていたのである。札幌市の桑園駅と新十津川町の新十津川駅を結ぶ路線だが、実態としては札幌駅が発着駅となっていて、学校や企業が多い途中駅まではかなりの本数が運行されていた。ところが、新十津川駅を発着する列車は上下各三本しかないのである。そして今度のダイヤ改正で、それが一本に減便されてしまうというのだ。新十津川駅からは通勤客や通学客すらほとんど利用していない。鉄道会社としてはしかたがない判断かもしれないが、新十津川町にとってはゆゆしき問題なのだ。

そんなことが話題となっている新十津川町を、この『札沼線の愛と死 新十津川町を行く』で十津川警部と亀井刑事、そして日下刑事が訪れている。十津川の自宅の最寄り駅で中年男性の他殺体が発見された。アイスバーンとなっていた道路に、血で書かれた十字のマークがある。それは何を意味するのだろうか? 「十津川」の「十」ではないのかという意見が、捜査会議で出る。十津川には見覚えのない男だったが、警察に電話が入った。殺された男は十津川警部に、招待状を届けに行ったのだという。十津川は思い出した。かつて奈良県の十津川村から招待状が来たことを……。

十津川警部のファンならば、その名字が奈良県南部の十津川村に由来していることは知っているだろう。紀伊半島の最深部に位置し、その面積は奈良県五分の一ほどを占めているが、千メートルを超える山が連なり、深い渓谷と相俟って、太平記に「鳥も通わぬ十津川の里」と書かれるほどの秘境である。

その十津川村の多くの住人が、かつて北海道へと移り住んだ。明治二十二年、一八八九年八月、紀伊半島は台風による大雨で大きな水害に見舞われた。十津川郷(その頃は六つの村から成り立っていた)には大規模な土石流が迫り、甚大な被害が出る。死者百六十八人、土地や家屋を失った人は約三千人にもなったのだ。当時の十津川郷の人口は一万三千足らずだったというから、絶望に駆られたことだろう。その地で生活を早急に再建するのは難しい。そう判断した人たちは北海道の未開拓地に希望を求めた。それが新十津川町のルーツなのだ。

約六百戸、二千五百人ほどが神戸の港から北の大地へと旅立ったのは、災害からわずか二か月ほどしか経っていない頃である。北海道の開拓を急いでいた政府による費用の負担があり、多くの寄付もあったという。危機を感じた人たちの尽力があっての移住だったけれど、それだけ十津川村の災害は特筆されるものだったと言える。

移住の地は空知地方の中部だ。三班に分かれて小樽の港に着いた十津川村の人々には、厳しい道程が待っていた。そして一行が着いた頃には冬が迫っていた。屯田兵用の家屋にいったん仮住まいをする。翌年、雪解けを待って、石狩川の流域である現在の新十津川町の一帯に移った。原野を区画して家を建て、農地を開墾していくのだった。

二年間は食糧が保障されたというが、自然の厳しさは今以上だったろう。凶作や石狩川の氾濫が何度も襲ってきた。それでもさまざまな工夫によって生活の糧を得ていく。新十津川村が設置されたのは一八九〇(明治二十三)年である。そして翌年には小学校が開校した。文武に長けていた郷里への思いがあってのことだ。北海道への過酷な道、そして苦難の連続であった開拓の歴史は、川村たかし『十津川出国記』(道新選書 一九八七)に詳しく記されている。町制が施行されたのは一九五七(昭和三十二)年である。

この『札沼線の愛と死 新十津川町を行く』の冒頭で、十津川警部は奈良県の十津川村について熱く語っている。十津川村に関係した十津川シリーズの長編は幾つかあるが、特に本書に関係ある作品として、『十津川警部 坂本龍馬と十津川郷士中井庄五郎』(集英社 二〇一九)を挙げておこう。その十津川村の住人によって開拓された新十津川町にも、十津川が親近感を抱くのは当然だ。

招待状について十津川村と新十津川町に問い合わせた十津川は、十津川町の反応に疑問を抱く。何か問題が起きているのではないか? 札沼線の新十津川駅に着いた十津川たちは、タクシーで町内を巡る。町役場や町民の信仰心の表れである出雲大社(!)、物産館と奈良の郷土料理がメニューにあるレストラン……だが、血文字を残して死んだ男の情報は得られない。それどころか、奇妙な噂を耳にする。二階の屋根まで飛び上がることのできる魔法使いが出たというのだ。その噂は全国的になり、新十津川町に注目が集まる。そして十津川らの捜査も、魔法使いの正体の解明がメインになっていくのだった。

タイトルに謳われている札沼線が全通したのは一九三五(昭和十)年十月三日だ。札幌と留萌本線の石狩沼田を結んでいたから札沼線と名付けられた。函館本線の西側を並走している路線だが、特に滝川駅と新十津川駅は近く、それを利用したアリバイ物のミステリーもある。

開業時、新十津川駅は中徳富駅という名前で、改称されたのは一九五三年だ。じつは、ながらくこの駅は「しんとつが0 わえき」と読まれていた。町のほうは「しんとつかわ」である。「旭川(あさひかわ)市」と「旭川(あさひがわ)駅」のように、自治体の読みと駅名の読みが微妙に違っている例はかつて北海道ではよくあった。近年は統一されているようだが、十津川(とつがわ)警部は新十津川駅により親近感を抱いたかもしれない。

その札沼線に危機が迫ったのは一九七一年である。当時の国鉄が石狩沼田・新十津川間の廃止を沿線自治体に提案したのだ。結局、翌年の六月十九日をもって、その区間は廃止されてしまう。

その直前、五月の時刻表を見ると、新十津川駅からは一日に上下五本の列車が発着している。一部の列車は深川まで直通運転していた。もちろんと言うべきなのかどうか、急行などの優等列車は運行されていない。札幌駅から新十津川駅までは二時間十分から五十分、石狩沼田までは三時間十分から五十分ほどの、のんびりとした鉄道旅だ。一度、三月に深川から廃止された区間内にある朱鞠内駅まで乗車したことが思い出される。全道一の豪雪地帯と言われるところへの旅の記憶は、今も鮮烈だ。

一部区間の廃止にもかかわらず路線名は継承された札沼線に、さらなる危機が訪れる。列車の減便だ。この『札沼線の愛と死 新十津川町を行く』は「月刊ジェイ・ノベル」に二〇一六年四月から十月まで連載され、翌二〇一七年二月にジョイ・ノベルス(実業之日本社)の一冊として刊行されたものだが、その連載期間中に新十津川駅を発着する列車が上下一本になるというダイヤ改正を迎えたのである。

それもじつに変則的で、朝の九時台に上り列車が新十津川駅に到着し、数十分後には折り返しで出発してしまうのだ。もう次の列車はない。日本一早い終電として話題になった。けれど、地元住民にとってはじつに利用しにくいダイヤだろう。もっとも、バスや自家用車を移動手段とする人が多く、その列車の乗客は鉄道ファンばかりということが多かったらしいが。

一九八七年四月の国鉄分割民営化でJR北海道の一路線となっていた札沼線に、二〇一六年、新たな危機が迫る。そのJR北海道が、一部区間の維持が困難であると発表したのだ。ほかにも多数の赤字路線を抱えているだけに、その判断を覆すことはできなかった。二〇二〇年五月七日をもって北海道医療大学・新十津川間を廃止すると決定された。

実は、二〇一二年に桑園駅から北海道医療大学駅まで電化され、都市近郊路線としてかなりの本数が運行されている。一九九一年にはすでに学園都市線という愛称が付けられていた。札沼線の全区間を通して走る列車に、もう存在意義はなくなっていたのだ。そんな時代の流れのなかで、十津川警部にとっては残念なことだろうが、新十津川駅も北海道では数多い廃駅のひとつとなってしまうのだ。

そうした鉄路の変遷を描いてきたのが西村京太郎氏の十津川警部シリーズである。ユニークな犯罪の謎解きとなっているこの『札沼線の愛と死 新十津川町を行く』もまた、メモリアルな長編として読み継がれていくに違いない。

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