6月の文庫新刊『代理人 善場圭一の事件簿』作品解説
読みごたえ充分の野球ミステリ集 佳多山大地(ミステリ評論家)
まり投げて見たき広場や春の草(正岡子規)
球春、到来せず。まさか、こんなことを書くときが来るなんて思いもしなかった。
今年(二〇二〇年)三月十一日、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、第九十二回選抜高校野球大会(同月十九日開会予定)の中止が決定された。一九二四年に〝春のセンバツ〟が始まって以来、太平洋戦争による五年の中断はあったものの、開催が中止されるのは史上初めての出来事だ。さらに、プロ野球のペナントレースも、当初予定されていた三月二十日の開幕が延期に。新型コロナの世界的大流行(パンデミック)の波がいよいよ日本にも押し寄せようとする――この原稿を書いているのは、東京や大阪など七都府県に緊急事態宣言が出て間もない四月半ば――現在、もはや新たな開幕日を設定することさえ難しい状況だ……。
近年、特に新聞記者(ブンヤ)物の小説で令名を馳せる本城雅人(二〇一七年、『ミッドナイト・ジャーナル』で吉川英治文学新人賞受賞。翌一八年、『傍流の記者』で直木賞に推挙される)は、予 (かね)て野球小説ジャンルの第一人者である。そんな本城の手になる本書『代理人 善場圭一の事件簿』は、元プロ野球選手にして今は複数の現役スター選手を顧客に抱える代理人、善場圭一が辣腕をふるう短篇小説集だ。
日本では弁護士資格を必要とする代理人は、選手の要請にこたえて球団側との年俸交渉に臨み、より良い条件を引き出すのが仕事。主人公の善場は、スポーツマスコミから「ゼニバ」と渾名されるほど金の亡者ぶりを発揮し、まさに憎まれっ子球界にはばかる名物代理人なのである。――と、こんなふうに紹介すると、契約更改の舞台裏を描いた野球小説のようで、確かにそうした要素は含むのだけれど、むしろ善場を駆け回らせるのは顧客選手の主に私生活(プライベート)に関わる〈問題〉であり、時に法曹の資格が実際面で役に立つ〈事件〉だったりするのだ。球界のトラブルシューター、善場圭一が主役を務める野球ミステリシリーズの刊行データをまとめておこう。
①『オールマイティ』二〇一一年三月、文藝春秋 → 改題『ビーンボール スポーツ代理人・善場圭一の事件簿』一四年三月、文春文庫
②『代理人(エージェント)』二〇一七年十一月、実業之日本社 → 『代理人 善場圭一の事件簿』二〇年六月、実業之日本社文庫 ※本書
初登場の①で、当時三十四歳の善場圭一は、ただでさえ忙しいストーブリーグのさなか、かつて強豪チームで四番を張った瀬司英明の居所を尋ね回るはめになる。失踪人探し、といえば私立探偵小説の代名詞であるが、瀬司が甲子園のスター球児だった過去にまで溯って失踪の原因を探る様子は、ハードボイルドヒーローさながら。作品の冒頭、故障明けのため二軍戦で調整中の瀬司が、ビーンボールを放った相手投手に対し「(野球を)やめろ!」と怒鳴る回想シーンが置かれているのだが、その挑発的な言葉の裏には思いがけない真相が潜んでいる。プロ野球の狭き門をくぐった、同い年の野球エリートたちの光と影を描いた長篇野球ミステリだ。
シリーズ続篇にあたる②で、善場は三つ年を取って三十七歳。相変わらず球界では名望よりも悪名が高い善場が、代理人として解決に乗り出した六つの難題がファイルされている。①でスポーツカメラマンだった青年が②では善場の助手を務めているように、レギュラーキャラクターの成長・変化にくすぐられるが、どちらから先に手に取られても単独で愉しめる作品になっている。――で、ここは敢えて差をつけてしまうのだが、野球小説として、また野球ミステリとして善場圭一シリーズを評価するとき、熱心な野球ファンでありミステリファンであると自負する解説子は、第二弾の本書のほうに軍配を上げたい。<
正直、長篇である①を読んだとき、惜しい、と感じた。冒頭のビーンボールをめぐるグラウンド上の反転劇は、じつに短篇に仕立てたほうが印象が濃いものになったのではないかと。もし善場シリーズをまったく未見であれば、先に短篇集の②でその魅力の精髄に触れてから①をひもとくことをオススメしたい。そのほうが、中盤の失踪人探しパートを、「善場は、こんなにストレートに私立探偵っぽい真似もするんだ」と意外性を感じながら味読できるはずである。
さあ、肝腎の本書『代理人』について詳しく見ていこう。名選手にして名将だった野村克也は、「野球は間違いなく、頭のスポーツ。頭脳戦だ」(参考:宝島社刊『野村克也 100の言葉』)という名言を遺したが、本城の物する野球小説も間違いなく頭を使って読むことで愉しみが弥増 (いやま)す。
皮切りの第一話「標的の表裏」で、善場圭一は、女性に性交を無理強いした容疑で逮捕状が出た千葉オーシャンズの内野手、谷上宏樹の弁護を依頼される。谷上選手は両者合意のうえでの行為だったと主張しているが、果たして相手女性の告発が虚偽であると証明できるのか? ミステリにおける古典的なパターンのひとつに、証拠や証言から犯人の利き腕が左右いずれであったかを推理する〈右利き左利き問題〉がある。本作は野球ならではのポジションと関係する〈右投げ左投げ問題〉を扱った秀作だ。
続く第二話「モンティホールの罠」で、読者はここ一番、頭を使わなくてはいけない。肘を再手術すれば充分に復活を果たす可能性があるベテラン投手との契約を、なぜ球団側は性急に打ち切ろうとするのか? 打者に対する配球の妙と実際の数学的確率論を二重写しにした手際が鮮やかで、もし解説子が野球ミステリのアンソロジー編纂を任される打席が回ってくれば、ぜひ収録を乞いたい逸品である。
第三話「鼓動の悲鳴」は、人間模様が濃やか。東京セネターズの高卒二年目の投手が自殺した一件の裏には、寮長による暴力事件があったとの噂がささやかれるが……。プロ野球からドラフト指名を受けた者は、若くして非常に高額な契約金を得る。そのことは、時に選手にとって人生の重荷ともなるだろう。
野球の打順なら、四番に入るのはホームランバッター。だが、本書の第四話「禁断の恋」は、言わば〝つなぎの四番〟である。広島レッズの育成選手と、シンクロナイズドスイミングの五輪メダリストとの恋愛スキャンダルの行方やいかに? 結婚と野球成績との因果関係を云々するのは、良くも悪くもプロ野球界の伝統であり、だからスポーツマスコミは色めき立つ。
第五話「秘密の金庫」は、元プロ野球選手の新海尊伸が参議院選挙を戦った顚末を描く。江本孟紀や中畑清をはじめ、元プロ野球選手が国政選挙に打って出た例は少なからずある。新海を出馬させた政党は、せいぜい客寄せパンダと考えていたかもしれないが、彼には秘めた信念がある。善場の清き一票も、きっと新海に投じられたはずだ。
掉尾を飾る第六話「サタンの代償」で、主人公の善場は、酔っぱらって後輩選手に怪我をさせた疑いがかかるベテラン投手、手塚幸人の弁護に回る。後輩選手の告発に、手塚の投球フォームが下手投げであることから〝蟻の一穴〟を見いだす弁論が強(したた)か。
以上、読みごたえ充分の野球ミステリ集の舞台は、改めて言うが、野球エリートたちの世界だ。とんでもなく網の目が広い篩(ふるい)にかけられて、それでも落ちなかった強者たちの世界。だが、プロ野球が国民的娯楽としてずっと親しまれているのは、どうしてだろう? 近年、いわゆる信用スコア――個人の信用度合いを、経歴や支払い能力などから数値化したもの――に基づくサービスが注目されているが、とっくの昔からプロ野球の世界では選手個々のあらゆる能力が数値化され、毎年のフトコロ具合の多寡まで公にされてきた。しかも、選手寿命は約九年と恐ろしく短い(参考:日本プロ野球選手会公式ホームページ)。そうしたところに野球ファンは“人世の縮図”をまざまざと見て、わが身に引き比べもしてきたはずだ。そんな野球のない人生は、やはり寂しい。
球春、到来せよ。今年の、二〇二〇年の野球シーズンが幕を開ける〈春〉は、野球ファンのみならず、すべての人の〈春〉になる。
付記
解説本文を入稿後に、本城雅人からニュース・リリースがあった。インターネットで自らの野球小説『スカウト・デイズ』と『球界消滅』、『トリダシ』の三冊を無料配信(四月二十四日から三週間)する取り組みを始めるとのことだ。リリースによれば、「まだしばらく我慢の時期が続きますが、小説を読んで、必死にプレーする選手や野球場の景色、ドキドキする緊迫感を思い出し、皆で開幕する日を喜び合えたらと、希望を抱いています」と。未曾有のコロナウイルス禍に対する、野球小説の第一人者らしい戦い方だ。