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男と女、男と男、女と女。そこに愛があれば、それはどんな方法であれ愛である 及川眠子(作詞家)

6月の文庫新刊『秘めゆり』作品解説
男と女、男と男、女と女。そこに愛があれば、それはどんな方法であれ愛である 及川眠子(作詞家)

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言葉を扱う仕事ということでは同じでも、小説家と作詞家は、モチーフの使い方や発想の方法など、いろんなことにおいてずいぶん違うんだなぁと、花房観音さんの著作を読んで改めて感じた。

今回上梓された短編集『秘めゆり』は、すべて和歌がモチーフになっている。「歌」を主軸に描いた物語だから、及川さんの仕事にも関連性があると思って……と花房さん。しかし読み進めていくほどに、なるほど私には小説は書けないわといちいち納得。歌詞を書けるからといって小説が書けるわけではないし、逆もしかりだ。

まずは本書の解説から始めてみよう。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

『万葉集』に収められている、額田王の有名な歌である。

この歌への返歌が大海人皇子、後の天武天皇が詠んだ、

紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも

という歌だ。

かつて自分の恋人だった額田王を兄の天智天皇に奪われ、その後偶然再会した二人。そこでの互いの気持ちを和歌にしたためていく。

「人妻ゆえに」ではこの歌をモチーフに、自分と兄と、そして昔の恋人で今は兄の妻になっている女との、禁断の恋の再燃となる物語が繰り広げられていく。もちろん官能小説を謳っている本書であるから、激しい性描写も描かれている。

同じ物書きでもまったく手法が違うと感じたのは、歌詞を本業にしている私の場合は、この額田王の歌から取り出すのは、おそらく「不倫」というシチュエーションだけだ。「紫野」などの美しい名詞は足すかもしれない。でもその相手が誰であるか、どんなふうに出会ったのかなどは、基本聴く側の想像に任せる。そこまでは限定しない。たぶん花房さんの小説を読んで「これを歌詞にしてくれ」と言われても、同じことをするだろう。

誰と誰がどこで何をしたという情景や状況の描写は、ほんの少し見せるだけ。歌詞は文字数やメロディーの縛りがあるので、説明だけに終始してしまえば、逆に何も伝わらなくなるからだ

逆に小説は細部まできっちりと書いていく。登場人物の性格や容姿を明確に決め、情景や状況までも書き込んでいって、そこに読み手の共感性を持たせようとする。一つの点からどんどん派生して大きな模様を描く、そんな作業であるんだろうなと、私は感じた。

小説は物語を紡ぐもの、詞は物語を想像させるもの。

ちなみに、歌詞はだいたい三〇〇から四〇〇文字くらいが主流だ。もちろんそれよりも少なかったり多かったりする歌詞はたくさんあるけれど、それくらいの文字数でおさまるものがいちばん多いと思う。通常は印税契約になっているので、ビッグヒットを出せば、一文字当たりの単価が最も高い職業なのかもしれない。特に私は、バラード曲など言葉が少なければ少ないほど得意だ。

もともと音楽が好きで、とにかく歌の世界に関わっていたくて作詞家になった。言葉が少ないものの方が得意というなら、短歌や俳句を書けばいいのにと言われるけれど、それはまた違う。なぜなら俳句や短歌ではたぶん私の伝えたいことを書ききれず、また「音に乗る言葉」にしか興味がないからだ。

小説に歌詞に俳句、短歌、詩、脚本、エッセイなどなど。言葉を駆使し物語を作っていく仕事はたくさんある。でもその分野で成功しているほとんどの人は、自分にとって「これがいちばん気持ちのいい言葉数」というものを持っていると思う。

話を戻そう。

本書のタイトルにもなっている「秘めゆり」。

夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ

こちらも同じく『万葉集』に出てくる大伴坂上郎女の歌である。想いを寄せる人に知られないなんて苦しいものなんだろうと、と秘めた恋のつらさを詠んだもの。

勘のいい人はタイトル「秘めゆり」だけで気付くだろう、レズビアンの恋の物語である。「百合」は女性同士の恋愛を示す言葉で(すでに廃刊となったが、かつて男性同性愛者向けに『薔薇族』という雑誌があり、男性同性愛者を指す「薔薇族」の対義語として、女性同性愛者を「白百合」「百合族」と呼んだのがきっかけという説がある)、主人公の名前は百合子。

私はいま《八方不美人》という名のユニットのプロデュースを手掛けている。彼ら(彼女らと呼ぶべきか)は、ゲイタウンで知られている新宿二丁目を中心に活動するドラァグクイーンたちだ。その仕事が縁でLGBTQの知人友人たちも増え、彼らからいろんな話を聞く機会も多い。

もともとは異性愛者であったのが、男性から酷い目に遭ったり男性との恋愛に失望したり、それでレズビアンになる人たちも中にはいると聞く。「秘めゆり」と、その続編である「くれなゐの桃」もまたそんな女性の物語。

同性であるがゆえに理解できる体の仕組み、性感のありよう。痛みを癒してくれて、本当に心を許しあえる相手がたまたま同性であったというだけかもしれないし、どんな結論であれ愛のかたちはいろいろあって、正解もないし間違いもない。

男と女、男と男、女と女。いずれにせよ、そこに愛があれば、それはどんな方法であれ愛である、というのが私の考えだ。

また、本書は全体的に京都弁での会話が繰り広げられている。まったりとして艶やかな京都弁で交わされる恋愛は、妙ななまめかしさやリアルを纏う。

女性同士、男性同士の恋愛をテーマに、私も詞を書いたことがあるが、その場合は比喩や暗喩を駆使して、それとなく「匂わせる」程度にとどめておいた。その方が歌となったときに、自分の体験などと照らし合わせてリアルに伝わるからである。《八方不美人》に書いている歌詞も、あなたと私の一人称二人称だけで、それが男同士であることを特定していない。

「これは男女の恋愛なの?」

「ご想像にお任せします」

そう答えるのが、作詞家としての親切心だと思っているからでもある。

そこもまた小説との圧倒的な違い。「想像にお任せします」では、おそらくわけのわからない物語にしかならないだろう。

七編の短編で綴られている本書の中にはいろんなパターンの恋愛と官能があるが、中でも私が最も好きだったのは「雪の跡」。

跡つけし その昔こそ 恋しけれ のどかにつもる 雪を見るにも

『新後拾遺和歌集』に収められた小侍従が詠んだ歌をモチーフに編まれた、主人公の一人語りで進められていく作品である。

長年の不倫の相手が結局自分の妻を取り、口先だけの優しさを残して去って行く。その狡さも保身もすべて受けとめ、且つ、ものわかりのいい女を演じながら、相手との情事を録音したものを妻に送り付けようとする。物語の最後はそれで終わっている。

復讐とか未練とかそういったものではない。ただ「私を忘れさせてやらない」という情念が女を突き動かす。なかったことにされるより恨まれ続ける方がよっぽどいいと。

私は、この底意地の悪さ、絡みつくような情念が、まさに花房さんの真骨頂だと思うのだ。官能を描いていても、そこにはセックス描写だけでは終わらないものが、いつも花房さんの小説を読んだときに胸に流れ込む。それはきっと花房さんの「心」だ。

人の肌の下には心がある。肌を重ねることで、だから見えてくるものがある。セックスは時には救いになったり執着に変わったり愛情をつれてきたり……。体と体の交わりからいろんなことが始まり、そして終わる。どんな場合でもそこに心を介在させて。

個人的な願いを言うなら、こういうどうしようもなく愚かで卑しく、だけど人の胸の奥にじっとりと存在する闇をもっともっと書いていってほしい。

歌は時代を映す鏡である。社会情勢も目の前に拡がる景色も流行り廃りも、まるで縮図のように歌の中に存在している。

かつては和歌。そして、私がいまも追いかけているのは流行歌。時代に流されながら、だけど時代を超えて残るものが、時にはある。

しかし変わらないもの、それは人の心だ。

どんなに科学が発達しようとAIが人間を凌駕する存在となっても、人の心は心のまま絶えず時代の波に揺られている。草食男子だのが増え、「秘めゆり」に登場するレズビアンを含めたLGBTQの人たちのカミングアウトが増えても、人が人を愛することや、それに付随するセックスへの探究心や迷いや悩みも、どれだけ時が経っても消えてしまうことはないだろうと思う。

小説家は物語を紡いでいく。作詞家は物語を想像させようとする。でも、ともに探しているのは、きっと「心」だ。

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