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胸に痛い恋愛小説 東えりか(書評家)

6月の文庫新刊 草凪優『知らない女が僕の部屋で死んでいた』作品解説
胸に痛い恋愛小説 東えりか(書評家)

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たしか5年ほど前になる。都内ホテルで開かれた某文学賞授賞式後のパーティで、ある男性編集者に声をかけられた。読んでもらいたい小説がある、というのだ。

こういうことは珍しくない。自宅に突然ゲラが送りつけられたり、知らない人から手書きの原稿が届いたり、というはた迷惑なことだって時々あるのだ。だからきちんと編集者から筋を通して、このような依頼をされるのはむしろ歓迎である。

いわく、ある作家がジャンル違いの小説に挑戦し、非常に面白く仕上がった。ぜひ女性の書評家に読んでもらいたい。東さんはお好きだと思う、とのこと。

作家の名前を聞くと「草凪優」だという。官能作家の第一線で活躍され、とても人気のある方だというくらいはわかっても、官能小説とはまったく縁のない書評家の私になぜ、という疑問がわく。

書評家、あるいは文芸評論家とは、本を紹介する仕事である。映画評論家をイメージしていただくといいかもしれない。おおむね、ジャンル分けされており、私の主戦場はノンフィクション作品だ。

なんとなく興味がわいた。官能小説家として人気を誇る作家が、その殻を破ろうとしている、という作品に立ち会えるというのは光栄なことだと思った。

ゲラが送付されてきたときは少し後悔した。分厚いのだ。だが『黒闇』とタイトルされたその小説は、本当に滅法面白い作品だった。

本書『知らない女が僕の部屋で死んでいた』とは少し離れるが、『黒闇』について語りたい。究極の暗黒恋愛小説だ、と。

目を覆わんばかりの愚か者たちばかりが登場する。もし身近にいたら決して近づかないタイプの人種なのに、この小説ではなぜか愛おしい。

男が夢を手放して堕落し、女に甘え、どん底から立ち直ろうともがき、一瞬の光を摑みかけたのち、足元をすくわれる、泥沼から這い出そうとする男と女の姿が目に浮かび、哀切な気持ちでいっぱいになる。

暖かい家庭を築こうと男を信じた女は、裏切られ絶望する。娼婦の真心が踏みにじられ、男に縋れば縋るだけ足元の穴が大きく開く。人はそんな黒闇に落ちないようにと気をつけて生きているはずなのに、明るい将来に目が眩んで見えない時もあるのだ。

まるで近松門左衛門の浄瑠璃のようだ。阿呆な男たちが自分の理屈と欲望だけを押し通す。それでも、人の道に反しても、一緒に生きたい、暮らしたい。さもなくば……、と道行きまでついている。

一気読みだった。救いのない暗黒小説なのに、読後感は悪くない。暴力シーンも濡れ場もふんだんにあるが、物語の流れの中にあり過剰でも扇情的でもない。

この作家に興味を持ち、官能小説を何冊か手に取った。

「この官能文庫がすごい!」2010大賞を受賞した『どうしようもない恋の唄』(祥伝社文庫)は事業に失敗し家族も亡くし、死にはぐった男がソープ嬢に拾われ再生していく物語だが、私の苦手な濡れ場を読み飛ばしてもぐいぐいとひきつけられた。

多くの草凪ファンの支持を得ている『夜の私は昼の私をいつも裏切る』(新潮文庫)は事故のようなセックスで「床惚れ」してしまったふたりを裏社会が追い詰めるサスペンス小説。結末が知りたくて夢中で読んでしまった。濡れ場のハードさには、ちょっとすくんでしまったが。

読み終わった後、心に残る残滓のようなものになんとなく懐かしさを感じた。こんな気持ち、昔感じたような気がする。

しばらく考えて思い至る。そうか石井隆の劇画に似ているんだ。

大学の時、研究室に誰かが置いていった『赤い教室』を読んで夢中になった。特に石井隆の代名詞ともいえる『名美』シリーズの恋愛上の心と性のせめぎ合いは、20歳の胸を切なく締め付けた。

その後、映画監督となり劇画は読めなくなってしまったが、私の本棚の奥には、まだ何冊か残っているはずだ。『黒闇』から読んだ一連の草凪作品はその物語の読み心地に似ていた。

本書『知らない女が僕の部屋で死んでいた』もまた、胸に痛い恋愛小説である。

ヘビースモーカーの南野蒼治はいわゆる「萌え絵」を描くイラストレーターでゲームのキャラクターデザインを手掛けている。二次元の女性にしか興味はなく、30歳になっても実際のセックスに対して積極的になれない。

仕事が干された夜、不断にない痛飲をした蒼治が全裸で朝目覚めると、ベッドに知らない女が死んでいた。状況からみて、どうやら自分が殺したらしい。その上、自分も自殺を試みたようだ。だが全く記憶がない。

女の荷物を探ると、星奈千紗都という中学時代の同級生だと判明した。記憶が戻らぬまま、彼女の最近の言動を中学時代の友だちから探り、故郷にも戻ってみる。

学生時代、美人で優等生だった千紗都と自分の接点はほとんどなかったが、一つだけ思い出が蘇る。しかしそのことが彼女を殺すこととどう結びついたのか。

ここまで紹介した前半は静かに語られる。他人を殺してしまったわりには淡々としていることに少し違和感があった。

だが第五章以降のストーリー展開はジェットコースターのようだ。どこで急降下するか、突然曲がるのか、先の景色が全く見えないまま引きずりまわされる。

中学卒業後の15年間は、大人になる過程であり社会人として独り立ちする時間である。ひとりひとり、様々な事情を持ち、30歳という節目に立つ。久しぶりにあったにせよ、その時間に何があったかなど問うことはほとんどない。

だが心の闇が呼応してしまうことがあるかもしれない。不安や恐れ、絶望が共振してしまうことがあっても不思議ではない。ましてや幼馴染であれば、その振れ幅がさらに大きくなるだろう。

少年刑務所を経験している蒼治と、上司たちの陰湿ないじめにあっている千紗都は出会うべきときに、運命のように出会ってしまったのだ。

夢中で読み終わり、最後のページを閉じたとき、思いがけない安堵感を感じた。そういえば、草凪優の小説は、エンディングがみな見事である。この小説も、前半の静の部分で仕掛けられていた伏線が効いている。悲劇で終わっても「よかったね」と思わず呟いてしまいたくなる。

この文章を書いているのは、2020年4月末。新型コロナウィルス肺炎が世界中で蔓延し、東京オリンピックは延期、ゴールデンウィークも「STAY HOME!」とペットに命令しているような自粛の嵐である。

多分、世界経済も各国の政治も、教育も家族の在り方もすべて変わってしまうに違いない。何しろ、新型コロナウィルスは、人と接触することを許さないのだ。

ふと草凪優は今何を考えているだろうと知りたくなった。ホームページにある日記から、ごく一部『知らない女が僕の部屋で死んでいた』と著者の気持ちが重なっていると思う場所を紹介したい。

4月6日「シンクロ」
(前略)実際、俺はいわゆるバブル世代だが高校中退してぶらぶらしてたからバブルの恩恵なんかほとんど受けてないし、大学も中退してるからいま思えば夢のような就職活動とか経験してないし、オウムのときも地獄のような貧乏暮らしでニュースすらろくに見てなかったし、911のときは仕事を失って放心状態になっててそれどころじゃなかったし、311のときは東北にいたけど関わりあいになりたくなくてさっさと沖縄に引っ越してきた。いつだって、世の中の動きでナーバースになったことなんてなかった。世の中より自分のほうがはるかに危なかったからだ。
 でも、今回はすごく終末感を覚えてる。世の中の気分と自分の気分がシンクロしているような気がする。大人になったのかな。それとも、曲がりなりにも東京がふるさとだから? いずれにせよ、50過ぎて初めての経験。

4月12日「Sex under the influence」
 この状況下でファーストコンタクトの相手とセックスするのは根性いるよな。
しかし、恋愛なんてタイミングが非常に重要なわけで、やるべきときにやっておかないと、その後の展開が大きく変わってくるどころか、自然消滅してしまう恐れもある。(中略)
 童貞喪失のチャンスが目の前にあった人とか本当に気の毒で、想像しただけで目頭が熱くなってくる。うつされてもいい、というだけなら愛の証明になっても、うつすかもしれないけどやりたいじゃなあ……愛じゃなくて安い欲望だもんなあ……。

ちょっと先の世界なのに、全く想像がつかないアフターコロナ、ウィズコロナの世界では、草凪優はどんな小説を生み出すだろう。願わくは、読み終わったときに「よかったね」と呟ける作品であってほしい。

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