J_novel+ 実業之日本社の文芸webマガジン

「ふたり」の思い出  赤川次郎(作家)

大林宣彦『ぼくの映画人生』作品解説
「ふたり」の思い出  赤川次郎(作家)

share

twitterでシェアする facebookでシェアする

2020年4月10日、大林宣彦さんが亡くなった。

この日は、新型コロナウィルスの騒ぎがなければ、大林さんの遺作となった「海辺の映画館─キネマの玉手箱」の公開初日となるはずだった。それは大林さんにとって心残りだったかもしれない。

私は幸い試写会でこの作品を見た。見る前は、いささか身構えていた。上映時間2時間59分。いかに大林さんといえども、体力と緊張感に、かつての勢いはないだろう。

それでも、最後まできっちり見ておかなければ。場内が暗くなると、私は自分にそう言い聞かせて、座り直した。

ところが──始まったとたん、私は大林さんの若々しくエネルギッシュな映像の奔流に巻き込まれ、あれよあれよという間に2時間59分の旅の終りに行き着いていたのだ。

これが、「肺ガンで余命三か月」と言われた人の映画か? 八十二才の監督が、生涯の最後に撮った作品なのか。

見終わったとき、私はすぐには席が立てなかった。圧倒され、興奮していた。

世界のどんな巨匠でも、八十才を過ぎての遺作に、こんな斬新な、映画の常識に挑戦するようなものを撮った人はいないだろう。大林さんは世界の映画監督の誰もがなしえなかったこと──遺作が同時に代表作でもある、という奇跡をなしとげたのだ。

大林宣彦さんといえば、まず思い浮かべるのはあの深味のある声、そして会ってまず握手をする、その大きな柔らかい手の記憶である。

あの声で、かんでふくめるように語られると、誰でも「ああ、その通りだな」と納得してしまう。映像の人でありながら、あれほどの語りの達人だったのはふしぎなくらいだ。

私の原作の映画「ふたり」のエンドクレジットに流れる主題歌「草の想い」を、作曲者の久石譲さんと二人で歌った大林さん。その声には、我が子の成長を見守る父親のようなやさしさが溢れていた。

──もともと顔見知りではあったが、大林さんと初めてじっくり会って話したのは、前述の「ふたり」の主演女優を決める席だった。

「この子で行こうと思うんだよね」

と、見せてくれたのは石田ひかりという、私の全く知らない女の子の写真だった。

正直、私は「この子では可愛過ぎないかな?」と思った。「ふたり」の主人公は、優秀で美人のお姉ちゃんと比べて、いつも影の中にいるような、あまり可愛くない、引込み思案な女の子なのだ。

でも、映画の主役としては、やはり多少なりともアイドルの可愛らしさも必要だろうと考えて、私は何も言わなかった。大林さんはたまたまその日誕生日だった石田ひかりに花束を贈り、〈北尾実加(主人公の名前である)へ〉と書いたカードを添えた。

私はその心配りに、大林さんが、主演した女優たちにいつも慕われる理由を見た気がした。

ちなみに、そのときの〈北尾実加へ〉と書かれたカードを、石田ひかりは今も大切に持っていると聞いた。

私が人生で「楽しかった記憶」をいくつかあげるとしたら、その一つは間違いなく映画「ふたり」の撮影現場を見に行った、尾道への旅である。

夏の暑い尾道へ、妻と娘と三人で着いたその日、ちょうど撮影されていたのは、石田ひかりのクラスメイト役の中江有里さん(今は作家になった)が、母親と心中すると決めて、旅先の旅館の部屋から石田ひかりに電話している場面だった。この映画がデビューだった中江さんと電話で話している相手の石田ひかりも、すぐ隣の部屋で受話器に話しかけている。

私は、「おや?」と思った。多少映画の撮影について知っていた私は、この場合、石田ひかりのカットは当然自宅のセットで別に撮るのだから、こういうとき、ひかりのセリフは助監督などが代りに言っておけばいいのである。

しかし、大林さんはひかりに、ちゃんと自宅の場面の服装をさせ、メイクもして、本当に親友の死を止めようと必死で語りかけさせていたのだ。新人の中江有里さんにとっては、そのことがどんなに演技の助けになったか。

私は、「ああ、これが新人を輝かせる大林マジックなんだ」と実感したのだった。

そして尾道の街を歩けば、いかに大林さんが尾道の人々に愛されているかがよく分かる。

撮影に使われる喫茶店、名もない小路や石段の一つ一つが、大林映画の登場人物として輝いている。

エキストラには町の人々がすぐにボランティアで集まってくれる。普通なら、東京のスタジオで撮影されるセットも、尾道の空いている倉庫の中に組まれる。「ふたり」は初めから終わりまで「尾道の映画」なのである。

今にして思えば、私が体験したのは、日本映画の最後のぜいたくな映画作りだったろう。その後は、大林さんでもあれほど自由に映画が撮れたとは思えない。

学校へ行く中嶋朋子、石田ひかりの「姉妹」に持たせるお弁当を、母親役の富司純子さんが本当に作っていたり、学生鞄の中の取り出すことのないノートにも、助監督が宿題をやってあったり……。それは大林さんの大先輩、黒澤明が、「赤ひげ」の療養所のセットで、薬草を入れる引出しに、開けることはないのに、ちゃんと実物を入れておいた、というエピソードを思い出させる。

こういう現場で初めての映画を経験した役者は幸せだ。石田ひかりも、この後、色々な現場を経験するにつけ、「ふたり」がどんなにすばらしい撮影だったかを感じる、と語っていたと思う。

「ふたり」の撮影を見学した旅でのもう一つの思い出は、一夜、スタッフ、キャストをねぎらう食事会が開かれたことだった。映画では、割烹着姿の、やさしくてちょっと気の弱いお母さんを演じていた富司純子さんが、このときばかりは見違えるようなドレスで颯爽と現われたのだ。そこには正に「大スター」富司純子──かつての藤純子がいた。

「ふたり」の後、「午前〇時の忘れもの」の映画化「あした」、TVムービーの「告別」、「三毛猫ホームズ」シリーズを二本……。

大林さんとの縁は続いた。「ふたり」から三十年はアッという間に過ぎた。

そして、思いがけない話が耳に入って来た。

大林さんが肺ガン、それもかなり悪いらしい……。

その前に、大林さんは心臓を悪くしてペースメーカーを入れていた。そのころ、お会いしても、握手する大きな手には、あまり力が入らなくなっていた。

それでも、まだまだ大林さんは大丈夫、と信じていた。──実は、大林家と私の家族とは、「十年違い」のそっくりな家だった。

夫婦が同い年。娘が一人。──どちらも、私の家族と十年違いなのだ。奥様の恭子さんも、娘の千茱萸さんも、何だか他人とは思えない仲なのである。

もちろん、大林さんと私とは、仕事の種類も違えば、性格も違う。実験精神を生涯失わなかった大林さんと違って、私には小説を革新しようとする冒険精神はなかったし、取材のために日本、海外を問わず飛び回ることもない。すべては頭の中で生まれ、組み立てられる。

若いころ、映画監督に憧れていた私は、今、小説を書くことで、「製作、監督、脚本、音楽、主演」を一人でこなしているつもりなのである。その一方で、現実の映画作りの苦労にはとても及ばない、という思いもある。

そして──この本のことに触れなかったが、読んでもらえば、何の解説も必要ないことがお分りいただけるだろう。

大林さん自身の語る、「わが人生」である。現場のエピソードや、役者論など、納得の話が次々に出てくる。

行間からは、あのやさしい声と語り口が聞こえてくる。大林映画をまた見直したくなる一冊であることは間違いない。

加えて、親本のカバーそのまま、和田誠さんの描く、大林さんがニコニコと微笑んでいるすてきな姿からは、あの声が聞こえてくる。

「用意! スタート!」

──「カット」は、もう永遠に来ない。

2020年6月3日

関連作品