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「表現」について抱えるジレンマ 天野千尋

12月の文庫新刊『ミセス・ノイズィ』刊行に寄せて
「表現」について抱えるジレンマ 天野千尋

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私はSNSが苦手だ。その理由は、自分が発した一言が、誰にどう伝わるかを気にし過ぎてしまうから。短い一言を呟くのに何十分もかかったり、呟くことを一度下書き保存して後で見直してから投稿する、という冗談みたいなことを本気でしている。用途としても、自作品の宣伝などがメインになっており、世間一般で普通に使われているように日々感じたことを投稿したり、気軽に自分の意見を述べたり、などという使い方が到底できそうにない。

自意識過剰といえばそうかもしれないが、自分ではそれだけ「表現」に対するこだわりが強いのだと感じている。私は、表現したものを世の中に発信するために、人一倍の覚悟とエネルギーを必要とするらしい。頭の中で考え抜いた末に、「これなら表現してよし」と心がお墨付きを与えたものしか出すことができない。それはたとえば「映画」という形だったり、今回でいえば「小説」という形だったりする。いずれにしても、ある程度の時間と労力をかけて築きあげるものになる。

けれど、それだけ考え抜いた末に出したものですら、他人に感想を聞くと予想外の疑問を突きつけられたり、意図したのとは違う方向で受け取られていたりすることが、少なからずある。そして「もっとこの点を意識すべきだった……」みたいな後悔が必ず生まれる。勿論それは然るべきことだと思っており、一定の批判や誤解は承知の上で世の中に出している。ただ、不特定多数に向けて発信する以上、そこに責任が伴っていることも忘れてはいけないと肝に命じる。

ペンは剣よりも強し、という言葉が万人のリアルになっている。2020年、コロナウイルスの影響で世の中が異様な空気に包まれていた自粛期間中、SNSの誹謗中傷が著名人の自殺を招く事件が起きた。「ミセス・ノイズィ」の映画のシナリオを書き始めた5年前当初から感じていたことが、いよいよ現実に私たちに迫ってきている気がした。言葉には、人を死に追いやるまでの力が実際にある。

アナログ時代では、特別な立場にない限り、私たちの声は半径5メートルの身近な範囲にしか届かなかった。でも今は、誰もが地球の裏側にも自分の声を届けることができる。そして見知らぬ誰かを傷つけたり、逆に、自分が会ったこともない人に人生を狂わされたりすることも、この小説の中のような出来事も含めて、沢山ある。他人の言葉をリツイートしただけで名誉毀損に当たることも裁判で認められている。

一方で、偶然の「表現」と出会うことは、確実に人生を豊かにする。私はこれまで、知らない誰かが表現したものを目の当たりにして、涙が止まらないほどの衝撃を受けたり、人生観が変わるような体験をしてきた。だからこそ、「表現」に向き合うことに、自分が生きる意味を見出したいと思っている。

スクロールが追いつかないほど、毎日沢山の誰かの声が届いてきて、読み物も映像もかつてないほど世に溢れ、生まれては消えていく。私はそのあまりの多さに圧倒され、時々身動きが取れなくなる。もう辟易して、目も耳も閉ざしたくなる。

だがこの社会でやっていく以上そうも言っていられない。やはり、大事なのは取捨選択しかない。発信するにも、受け取るにも、自分が意思を持って取捨選択していかなくては、情報の海の中で息ができなくなる。

私はきっと、「表現」に対して人一倍強い憧れやこだわりを抱いているからこそ、それを出すのも受けるのもしんどくて、その反面、何にも変えられぬ生きがいにもなっているのだ。きっと、この先もずっと抱え続けるジレンマなんだろう。

今回、私が表現したこの小説や映画が、知らない誰かにたまたま選び取ってもらえることは、とても奇跡的なことだ。こんなあとがきまで時間を割いて読んでくださった方がいれば、もうその出会いに感謝しかない。

(本エッセイは『ミセス・ノイズィ』に収録された「あとがき」を転載したものです)

天野千尋(あまの ちひろ)
映画監督、脚本家。1982年愛知県生まれ。名古屋大学法学部法律政治学科卒業。5年の会社勤務を経て、2009年に映画制作を開始。ぴあフィルムフェスティバル、したまちコメディ映画祭ほか多数の映画祭へ入選・入賞。主な作品に『さよならマフラー』『フィガロの告白』『ガマゴリ・ネバーアイランド』『どうしても触れたくない』など。19年秋、『ミセス・ノイズィ』が東京国際映画祭・スプラッシュ部門のワールドプレミアで大反響を呼ぶ。20年12月公開の同作を、自らノベライズした本書は、初の小説作品である。

映画「ミセス・ノイズィ」公式サイト
https://mrsnoisy-movie.com

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