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無垢な感動 唯川 恵(作家)

12月の文庫新刊 馳星周『神の涙』作品解説
無垢な感動 唯川 恵(作家)

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舞台は北海道屈斜路の田舎町。春の雨が降る午後、中学生の悠の元に背の高い瘦せた男が訪ねて来る。その見知らぬ男は悠の祖父、かつては猟師で今はアイヌの木彫り作家である敬蔵と話したいという。戸惑う悠。物語は不穏な気配を孕みつつも、まさに春の雨のように寂々と始まる。

アイヌという文字を見た時、少し緊張した。北海道生まれの馳さんにとって、北海道を書く上でアイヌは避けられないテーマだという信念があったに違いない。しかし、アイヌに関して私が知っていることなどたかが知れている。

北海道の先住民であること。美しい文様があしらわれた装束と、独特の言語を持つこと。アイヌにとっての神(カムイ)は、太陽や月、風や雨や川や海、動物植物など、すべてのものに宿るという民族特有の思想があること。

こんなシーンがある。木彫りのために気に入った木を求めて、敬蔵は何日も山に入る。そこが私有林だろうと頓着しない。しかし地主にとってはたまったものではない。何度苦情を述べても繰り返す敬蔵に腹を据えかねて、地主は警察に訴える。

敬蔵の言い分はこうである。
 ――この辺の山はみんな、元々アイヌのものだった。

忘れてならないのは、明治新政府にアイヌの土地は日本の領土として没収された事実である。それによって、伝統的な文化が消失の危機を迎えてしまった。

アイヌに強い誇りを持つ敬蔵は、更に怒りを込めて言う。 「自分が日本人だと思ったことはない。どうしてかというと、日本という国に、大事にしてもらったことが一度もないからだ」「(中略)和人全員からいじめられ、虐げられ、搾取されてきた。死んだアイヌも大勢いる」

どんなに時を経ようとも、和人もアイヌも同じ日本人である、という考え方に敬蔵は辿り着けないのももっともだろう。

敬蔵は腕のいいアイヌ彫りの職人であるが、酒飲みで暴力的な男でもあった。それが原因で娘にも妹にも逃げられている。どんな理由があろうと、鬱憤をぶつけられた方は堪らない。けれども読み進めるうちに、印象は変わってゆく。敬蔵の心に負った傷がどれほど深いものであるかが理解できるようになるからだ。

敬蔵と年齢が近い私は、当時の風潮を容易く想像することができる。アイヌばかりではない、宗教、人種、性差、障害、病、境遇などに対して、さまざまな差別が陰湿に存在していた。

あの頃は――もちろん私も含めてだが――人々の意識は未熟だった。いや無知であったと言った方がいいかもしれない。もっと言えば、自分を守る手段として利用していたとも言える。差別を受けた者の苦しみは、受けた者にしかわからない。残酷な現実は敬蔵をそこまで追い詰めたのだ。

そんな敬蔵の孫娘である悠は十五歳、とても聡明な女の子だ。敬蔵と違い、自分の身体に流れるアイヌの血を疎ましく思っている。時代は変わっても、差別は嫌がらせやいじめに姿を変え、今も容赦なく蔓延している。同級生に心ない言葉を投げ付けられたこともある悠は、早くこの町から出て、アイヌなど気にせず自由に生きたいと願っている。

馳さんは、そんな悠の思いを、ベッド下に忍ばせたスーツケースを引っ張り出し、荷物を詰めたり取り出したりする作業で表現している。このエピソードはとても秀逸だと思う。アイヌから解放されたいという悠の切々たる思いが実によく伝わって来る。

そして、敬蔵を訪ねて来た雅比古。彼は自分の出自を求めてアイヌに辿り着く。
 雅比古はある罪を背負っている。

勝手な思い込みだが、罪を背負う男を描く時、いかにも翳のある、無口で孤独なタイプにすることが多いように思う。しかし馳さんはまったく違う描き方をしている。雅比古は素直で明るく誰にでも好かれる好青年だ。

いや、そうは書いても仮面であって、やがて虚無的な男としての本性を現してくるに違いない、と想像していたのだが、雅比古の爽やかさは最後まで変わらない。

その意図が理解できたのは終盤近くになってからである。その落差があるからこそ、雅比古が抱えるやり場のない憤りがいっそう身につまされる。まさしく馳さんの狙い通りだったのではないだろうか。

そして、アイヌだけでなく東日本大震災における原発問題についても、馳さんは自身の思いを明確に押し出している。それは原発に対する不信感や反発を持ちながらも、電気に頼り切った生活を手放せないという矛盾に対する、多くの人が抱える蟠りにも繫がってゆく。どんなに時を経ようとも、忘れてはいけない事実がある。それはその時代を生きた者が背負っていかなければならないのだ、と。

このように本作品は重いテーマを扱ってはいるが、どこか開放的にも感じるのは、やはり舞台が北海道だからだろう。とにかく自然の描写の細やかさが素晴らしい。

摩周湖の滝霧、夕日を浴びて金色に輝くイソツヅジの花々。敬蔵と入る川湯近くの山。悠が連れられて彷徨う山中の緊迫感。羆の気配。シマフクロウや猛禽類、エゾシカの躍動。キタキツネの愛らしさ。丁寧で的確に描かれたシーンが輝きを発している。それらがよりいっそう物語を厚みのあるものにしている。

馳さんの初期の頃の作品においても、描写には迫力があった。どんなに太陽が降り注いでいても闇の気配が漂い、喧噪の中にも絶望のような沈黙があった。それも読者を魅了する要因だったが、今回のこの対照的な自然の豊かさや動物たちの生命力溢れた描写に触れて、改めてその筆力に唸らされた。

そして自然と対峙してゆくうちに、だんだんと物語に登場するのは男でも女でも、老いも若さもないとわかってくる。そこに存在するのはひとりの人間、ひとつの魂だ。だからこそ、読後、無垢な感動に満たされるのだろう。

終盤にこんな文言が書かれている。
 「人の罪を罰するのは神様の仕事、人にできるのはゆるすことだけ」

胸を衝かれた読者は多いのではないだろうか。私もまさしくそのひとりである。更に加えさせてもらうと、刑を終えて、小ぶりのスーツケースひとつで出所した雅比古が胸の中で呟く言葉がある。

――これ以上ものを増やさないようにしよう。その日生きていくのに必要なもの以外は手にしない。ただただ一日一日を精一杯生きていくのだ。かつて、アイヌの民がそうしていたように。
 気付いたら目尻が濡れていた。

さて、少し個人的な話を。
 馳さんといえば、金髪にサングラス、元新宿ゴールデン街の住人、年も離れていて、私との接点などあるはずもないと思っていた。ところが互いに軽井沢に移住し、偶然にご近所同士になった。以来、夫婦同士で食事をする仲である。

馳さんの素顔を知るようになって、イメージとの違いに驚かされたことはたくさんある。まず料理上手なこと。それからよく笑うこと。周りへの気遣いが行き届いていること。派手そうに見えて実は地道な努力を惜しまないこと。何より、犬たちへの愛情の深さには感動すら覚える。

気付けば付き合いもすっかり長くなり、時には一緒に泊りがけの山登りにまで出掛けている。いい関係を築かせてもらっていると思う。年月が経って、馳さんの表情には穏やかさと余裕が加わった。先輩面するようで失礼この上ないが、いい年のとり方をして来たなぁと思う。

2020年7月15日、嬉しい報せが入った。馳さんの『少年と犬』が第163回直木賞を受賞したのである。デビューから二十四年、七回目のノミネートだった。

今更ながらだが、デビュー作『不夜城』は衝撃的な作品だった。新宿歌舞伎町に暗躍する中国人マフィアの抗争に巻き込まれてゆくストーリーで、暴力、謀略、金、憎悪、狂気に満ち、多くの読者を虜にした。映画も大ヒットし、一躍文壇で注目される存在となった。私も夢中で読んだ。その手のジャンルに疎い私でも、今まで読んだノワール小説とは一線を画していることが伝わって来た。『不夜城』はベストセラーになり、第18回吉川英治文学新人賞、第15回日本冒険小説協会大賞を受賞する。あの時、綺羅星のごとく現れた馳星周に、同世代の作家たちは動揺したはずである。凄い奴が出てきた、と。

以来、暗黒小説の旗手となり、次々と絶望的な作品を送り出して来た。それは読者が望んだことであり、出版社の意向もあっただろう。しかし馳さんは一つ所に留まる作家ではなかった。それから歴史小説や青春小説、自伝的小説、コメディタッチの小説など、常に読者の意表を突く作品を送り出している。

あるインタビューで馳さんがこう答えていた。
 「本当に申し訳ないけれど、読者のことを考えて小説を書いたことはない」

これからも、馳さんはジャンルなど関係なしに、書きたい小説を書き続けてゆくだろう。次はどんな作品に出会えるのか、楽しみでならない。

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