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明日のために眠りましょう 泉ゆたか

2月文庫新刊『猫まくら 眠り医者ぐっすり庵』刊行に寄せて
明日のために眠りましょう 泉ゆたか

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眠る時間が大好きだ。

お気に入りのガーゼのパジャマを着て、ベッドで先に寝入っている猫の位置をずらして、加湿器に水を注ぐ。時にはいい匂いのお香を焚いたり、ボディクリームを塗ったり、アイマスクで目を温めたり、頭の中を空っぽにして瞑想をしてみたりもする。最後にスマホを遠くに置いて、本棚から取り出した本を手に準備万端でごろんと横になる。

重ねたクッションにもたれて頁を捲っているうちに、眠りの波がゆっくりと訪れる。だんだん自分が起きているのか寝ているのかわからなくなってきて、ただ息がゆっくり深くなっていくのを感じながら、胸に広がる安らかな幸せを噛み締める。

夜は苦手だ。夜は寂しい。夜は切ない。恥ずかしくて頭を抱えたくなる失敗や、ぐさりと刺さった誰かの言葉や、気掛かりな予定など、嫌なことばかりが胸の中をもやもやと漂う。

だが一晩ぐっすり眠ることさえできれば。

次の朝には、あんなに憂鬱だったはずの世界が、ぱあっと明るく輝いて見える。

長く眠り過ぎて、お腹が減って目覚めた朝などは最高だ。

冷蔵庫を開けて「朝ご飯は何にしようかなあ」なんて考えているときの私は、きっととんでもなく前向きな良い顔をしているはずだ。

しかし私は、いつもこんなに理想的な睡眠生活を送ることができているわけではない。

悩み事があるとき、生活が変わったとき、極端に運動量や人との関わりが足りないとき。

そんな時期はすんなりうまく眠ることができなくなって、早く眠らなくちゃと焦る自分に焦りながら、スマホを片手に無駄な夜更かしを重ねてしまう。

眠れないというのはほんとうに厄介だ。そのせいで頭が回らずにネガティブになり、そのせいでさらに眠れなくなる――と、どこまでもぐるぐる悪循環を繰り返す。

最近そんな状態になったのは、今もなお続くこのコロナ禍だ。特に昨春は何をどうしたら良いのかわからないことばかりで、昼も夜もひたすら戸惑ってばかりいた。

世界中の皆が同じように困惑している、ということは大きな救いだった。日中は室内で動画を見ながら運動したり、友人とオンラインで気晴らしのお喋りをしたりして、少しでも前向きに過ごそうと心がけた。

けれど眠りに落ちる前のほんのひと時、私は必ずこの世界でひとりきりだ。

だらだら、ごろごろしながら疲れた心と身体を癒す至福の時間のはずが、暗闇を見つめて答えのない問いを考え続ける暗黒の時に変わった。

マスクの着用と外出自粛生活がすっかり日常になった頃に、私の不眠はなんとなく解消された。だが、またあの嫌な日々が戻ってきたらどうしよう、という不安は、今でも完全に拭い去ることはできない。

本書『猫まくら 眠り医者ぐっすり庵』は、江戸時代、人々の不眠を治した医院の物語だ。

西ヶ原の茶問屋の娘お藍は、後悔の大きい形で母を亡くしてから、うまく眠ることができなくなった。元来は前向きで働き者のはずだったお藍は、良い眠りを摂れないことでどんどん落ち込みがちになっていく。

だが気持ちも身体もすべてが悪い方へ進んでいく中で、長崎に留学に出かけてから音信不通になっていた兄の松次郎が戻ってくる。

長崎、鳴滝塾での経験を通して眠ることの大切さを知った松次郎は、お藍(と、眠り猫のねう)と力を合わせて、不眠で悩むお江戸の人々を救っていく。

本書の構想段階で、貝原益軒の『養生訓』を読んだ。江戸時代中期に書かれたこの本は、健康を脅かすものを正しく畏れ、自分の身体に真剣に向き合う心構えを説く名著だ。

その中で益軒は、食欲や色欲といったさまざまな欲を抑えると同時に極力睡眠を少なくするように、と語る。長生きするための秘伝を授ける厳しくも優しい言葉には、なるほどと頷く説得力がある。

だが激動の時代を生きている真っ最中の私には、そこがこつんと引っかかった。

眠らず休まずどれほど働くことができるかを謳う栄養ドリンク。体調を壊しても休めない人のための風邪薬。高熱を隠して舞台に立ったと絶賛される役者。風邪くらいで仕事を休むなんて非常識だと叱られる若者――。

ほんの数年前(いや、一年と少し前)まで疑問ひとつ抱かなかった光景が、禍々しいまでの皮肉を伴って蘇った。

ああ、この世界は大きく変わったんだ、と思い知った。

不眠不休で身体を酷使して、どれほど走り続けることができるかを競う世界から。ぐっすり眠って栄養のある食事をして、自分の体調にしっかり気を配り、皆が疫病を遠ざけて健康で長生きすることを何よりも願うという世界に変わったのだ。

〝ぐっすり庵〟には、お江戸中から、さまざまな眠りの問題を抱えた人々が訪れる。

患者たちはさまざまな刺激が目まぐるしく飛び交う現実の世界に疲れ切り、困惑しながら、すべてを忘れて静寂の中で過ごすことのできる時を切に求めてやってくる。

本書を皆さまの安眠のお供にしていただければ、これほど嬉しいことはありません。

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