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総理大臣のあるべき姿とは!? 百年前の〈平民宰相〉の生きざま 細谷正充(文芸評論家)

2021年10月単行本新刊 平谷美樹『国萌ゆる 小説 原敬』ブックレビュー
総理大臣のあるべき姿とは!? 百年前の〈平民宰相〉の生きざま 細谷正充(文芸評論家)

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本書『国萌ゆる 小説 原敬』を理解するためには、他の平谷作品に目を向ける必要がある。幕末の盛岡藩の若き家老・楢山佐渡の生涯を描いた『柳は萌ゆる』と、嘉永六年に盛岡藩で起きた三閉伊一揆の顛末を活写した『大一揆』だ。特に『柳は萌ゆる』は、本書との繋がりが深い。なぜなら主人公の原敬は盛岡藩出身であり、少年時代に佐渡の薫陶を受けているからだ。『柳は萌ゆる』の佐渡は、万民の思いが反映される世を作るという高き理想を抱いていた。その理想は、いかにして原敬に受け継がれたのであろうか。

戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に参加していた盛岡藩は朝敵となった。藩のかじ取りをしていた楢山佐渡は処刑される。十四歳の原敬(当時は健次郎)は、最期の時を迎えた佐渡に、「必ず、楢山さまが目指した国を作ってみせます」と叫んだ。しかし、そのためにどうすればいいのか分からない。明治維新を牽引した薩長土肥への憎しみも捨てることができない。自らの進むべき道に迷いながら、東京に出た敬は、幾つかの塾を経て、天主堂神学校の門を叩いた。やがて横浜のエブラル神父の学僕となり西日本や東北を旅する。

その後、士族から平民になると、司法省の法学校を受験して見事に合格。しかし入学三年目の明治十二年、寮の賄いの不正を巡り、司法卿の大木喬任のところに乗り込むという騒動を起こす。この件で退学になった敬は、中江兆民の塾を経て、新聞記者になる。だが新聞社が大隈重信に買収され、機関紙になると分かると退社。外務省御用掛の職を得たことを足掛かりに、しだいに政治に近づいていく。

周知の事実だろうが原敬は、第十九代内閣総理大臣である。華族爵位を固辞し続けたことから〝平民宰相〟の名で庶民に親しまれたが、大正十年、東京駅で暗殺される。明治八年から大正十年にかけて書き継がれた日記は『原敬日記』と呼ばれ、近代史の重要な史料になっている。しかし彼を主人公にした歴史小説は、ほとんど見当たらない。本書を読むと、この事実が不思議に感じられる。なぜなら、作者が描き出した原敬は、とても魅力的な人物だからだ。

楢山佐渡の理想を受け継ごうと思いながら、まだ若い敬はどうすればいいのか分からない。法学校で何かと議論を吹っかけては、薩長土肥が悪いという結論に持っていくため、相手にされなくなるなど、若気の至りもいいところだ。それでも彼は、自らの信じた道を突っ走る。賄い騒動での行動など、エピソードも痛快だ。そんな人生の過程で敬は、多くの人に出会う。盛岡の出身でも、明治の世と折り合って生きる人がいる。政府の役人でも、楢山佐渡を認めている人がいる。人の主義主張は多様であり、世の中は一筋縄ではいかない。薩長土肥を憎んでいた敬は、しだいにその気持ちだけでは、どうにもならないことを理解していくのだ。

作者は敬の足跡を丹念にたどりながら、彼の成長を巧みに表現していく。潔癖な若者だった敬だが、さまざまな体験を経て、清濁併せ呑む政治家へと変わっていくのだ。敬の事績を積み重ねながら、彼の変化を鮮やかに表現しているのである。だから物語の後半で、自分が佐渡を超えたと確信する主人公に納得し、感動できる。佐渡の理想を受け継ぐだけではなく、新たな世に合わせて発展させてきた。それを自負する原敬という人間の大きさに魅了されてしまうのである。

とはいえ彼は完璧な人間ではない。最初の結婚に失敗し、一時期は妻妾同居生活をおくるなど、私人の部分には問題もあった。作者は敬のプライベートも、きちんと描き出し、その人間性を多角的に捉えているのだ。自分が惚れ込んだ人物でも、冷静な視点を忘れない。歴史小説家・平谷美樹の誠実な姿勢が、本書の内容をより豊かなものにしているのである。

さらに主人公の人生と共に、近代日本の歴史が綴られている点も見逃すことができない。西南の役・日清日露戦争・第一次世界大戦……。激動の近代日本の姿が、鮮やかに浮かび上がってくるのである。しかも終盤には、スペイン風邪まで登場する。たしかにスペイン風邪が日本で流行した時期は、敬の人生と重なり合うが、これには感心した。あきらかに現在のコロナ禍を重ね合わせているからだ。

このことについて作者は、声高な主張をするわけではない。ただ読者としては、佐渡から理想を受け継ぎ発展させ、内閣総理大臣にまでなった敬と、コロナ禍に右往左往する現代の政治家を比較し、溜息をつかずにはいられないのだ。未来がどうなるか分からない混迷の時代だからこそ、理想と実務能力を併せ持つリーダーが欲しい。つまりは原敬のような、内閣総理大臣を求めてしまうのである。

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