2022年3月単行本新刊 野口卓『逆転 シェイクスピア四大悲劇』ブックレビュー
21世紀のシェイクスピア 縄田一男(文芸評論家)
『逆転 シェイクスピア四大悲劇』は、かの有名な「オセロ」「マクベス」「ハムレット」「リア王」の四大戯曲に、時代小説ファンから絶大な信頼を得る野口卓が、鋭く切り込んだ異色の一巻となっている。
今私は“異色の一巻”と書いたが作者にとってみれば異色でも何でもなく、彼には『シェイクスピアの魔力』(明治書院)がある、知る人ぞ知るシェイクスピア研究の泰斗なのだから。
この一巻は、これぞまったく新しい解釈と展望による21世紀のシェイクスピアだ、とでも言える内容となっている。
ではこの作品のどこが面白いかと言えば、作者曰く、シェイクスピア作品には主役だけでなく、脇役や端役にも魅力的な人物が多く、彼等の観点から見た四大悲劇とその逆転劇を描きたかったと言うのである。
何と知的たくらみに満ちた発想であろうか。
巻頭の「イヤーゴの女房」は、オセロを悲劇に追いやった彼の旗持ち、イヤーゴの女房エミリアのもとへ、オセロの副官からキプロス総督となったキャシオの愛人で娼婦のビアンカが訪れるところから始まる。
二人はエミリアが言う如くこの作品の脇役、いや端役でしかないが、この短篇では堂々主役を務める。
今私が端役と言ったのは、原典で二人が出会うのは第五幕第一場のラストであり、そこで交わされる台詞は一言二言でしかないからだ。ところがこの作品では、イヤーゴに刺し殺されたかに見えたエミリアが、刃が肋骨に当たって逸れたため命を取り留めた事になっている。
二人はオセロの妻デズデモーナ殺しが何故起きたかを話し合うのだが、最後の最後になって、何故ビアンカがエミリアを訪ねてきたのか、ちょっとしたミステリばりのツイストがあって思わず読者をニヤリとさせる。
「魔女中の魔女」は「マクベス」異聞である。「マクベス」については黒澤明監督の「蜘蛛巣城」でご存知の方も多いだろう。
この作品で面目躍如たる活躍をするのは原典では魔女一、二、三とされ、年齢もわからなければ名前すら無い、マクベスに予言をささやく魔女達である。
作者はこの三人にマーサ、ジーン、ヨハンナの名と、それぞれ二十代、四十代、六十代の年齢を与えた。魔女に年齢があるかどうかは少々疑問だが、この三人が全篇にわたって活躍する。
一番若い魔女のマーサが原典と同じように「きれいは汚い、汚いはきれい」「光は闇よ、闇は光よ」といった撞着語法を繰り返す中、心にきざした悪心を魔女の予言のせいにし、ひたすら破滅に突き進むマクベスを通し人間の本質に迫っていく。
魔女にしてみれば「おもしろいものを見たんだよ」の一言ですませられるが、人間にとってはひとたまりもない。
題名にある「魔女中の魔女」が脇役から主役に躍り出る様をとくとご覧あれ。
「幕間 オフィーリア狂乱」は、この連作集で唯一現代物の短篇である。
設定はカリスマ演出家の貝山が、自身初のシェイクスピア劇である「ハムレット」で演劇経験の少ない花園かおるこをオフィーリアに抜擢するというもの。貝山は何故かおるこに白羽の矢を立てたのか、そしてこの作品はほとんど二人の会話により作者の演劇論が展開されているかに見える。
その様々なやり取りの中で、私はふいに作者にイギリス製の「ハムレット」の映画化作品と旧ソビエト製のそれと、どちらを買っているか聞きたくなった。ローレンス・オリビエが主演した前者は極めて舞台的。インノケンティ・スモクトノフスキーが主演した後者は、父親の亡霊がマントをひるがえして立っている場面や、ラストの剣戟シーンでのハムレットの二刀流など極めて映画的なのである。
そうした様々な思いが浮かび上がってくる魅惑の現代劇なのだと言えよう。
さてラストは「リアを継ぐ者」である。
リア王の悲劇は、彼が国土を分割して三人の娘とその夫に与えると宣言した事による。
上の二人の娘ゴネリルとリーガンはすでに結婚しているが、三女のコーディーリアはフランス王とバーガンディ公爵に求婚されていた。リア王は三人の娘に自分への愛を語れと要求するが、真実を飾り気なく語ったコーディーリアのみが絶縁されてしまう。
人間の欲望が交錯するこの作品において、作者は原典の齟齬や違和感を巧みに修整。戯曲の中で最も目立たない男、脇役であるリア王の長女ゴネリルの夫オールバニ公爵を語り手たらしめたのである。彼を客観的かつ公明正大に全体を俯瞰出来る男であると喝破した作者の慧眼こそを思うべきであろう。