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日本を、世界を走り抜けたトラベルミステリーの巨匠の軌跡 山前 譲(推理小説研究家)

追悼・西村京太郎さん
日本を、世界を走り抜けたトラベルミステリーの巨匠の軌跡 山前 譲(推理小説研究家)

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二〇二二年三月三日、満九十一歳で急逝した、トラベルミステリ―の巨匠・西村京太郎氏。
弊社からも多くのヒット作、話題作を刊行し、四月八日にも人気の「十津川警部捜査行」シリーズの最新刊『十津川警部捜査行 東海特急殺しのダイヤ』が文庫刊行されます。

西村京太郎ミステリ―の軌跡を、これまで数多くの西村作品を評してきた山前譲氏にお書きいただきました。改めて氏のご冥福を祈るとともに、今後も多くの読者に読み継がれていくことを願って止みません。

日本のミステリー界におけるパワフルな牽引車として、読者層を一段と広げたのが西村京太郎氏である。多くの作品がテレビドラマ化されたことも相俟って、いわゆるトラベルミステリーというジャンルを一九八〇年代に確立した。オリジナル著書は六百四十冊を超えている。その功績がミステリー史で特筆されるのは間違いない。

西村氏の最初の一冊は『四つの終止符』、一九六四年三月の刊行だった。だが、オリジナル著書として五十冊目になる『夜行列車(ミッドナイト・トレイン)殺人事件』は一九八一年四月刊で、大ベストセラーとなった『寝台特急(ブルートレイン)殺人事件』の三年後である。一冊目から十七年もかかっている。西村氏も最初からベストセラー作家ではなかったのだ。

デビュー作『四つの終止符』(文藝春秋刊)

『四つの終止符』の前年、一九六三年に「歪んだ朝」で第二回オール讀物推理小説新人賞を受賞している。一九六五年には江戸川乱歩賞を受賞した『天使の傷痕』を二冊目の著書として刊行した西村氏だが、そこまでの道のりもけっして平坦なものではなかった。

一九四五年四月、十四歳の西村氏は陸軍幼年学校に入学する。将来を担う将校を純粋に育てる教育機関だけに、入学試験の倍率はかなり高かったそうだが、わずか四か月で終戦を迎え、陸軍幼年学校は廃校となる。都立電機工業学校を卒業して、一九四八年、人事院の前身である臨時人事委員会の職員となった。職場の同僚と「パピルス」と題した同人誌を出したりしていた西村氏が、本格的に小説を書き始めたのはいつなのか。それは定かではないのだが、一九五六年に入選作が発表された長編ミステリーの募集に本名で、翌一九五七年の第三回江戸川乱歩賞に西村京太郎名義で投稿したことは、記録に残っている。

そして一九六〇年三月、三十歳を目前にして人事院を退職し、いよいよプロ作家を目指すのだ。当時、松本清張作品を中心にかつてないミステリー・ブームが訪れていた。新人発掘の機運は高まっていた。西村氏もその年、推理小説専門誌「宝石」の懸賞小説で、入選はしなかったけれど、候補に挙げられている。

だが、オール讀物推理小説新人賞までの道はなかなか険しかった。退職金や貯金が尽き、パン屋の運転手をはじめとして、書籍取次会社、私立探偵、競馬場の警備員などのアルバイトも経験している。ちなみにパン屋での経験は、十津川警部シリーズの短編「甘い殺意」(一九七八)に生かされた。『日本ダービー殺人事件』(一九七四)や『ダービーを狙え』(一九七八)といった競馬界を背景にした長編も書かれている。

一九六〇年代の後半、ミステリー・ブームは去っていた。江戸川乱歩賞を受賞したからといって、次々と著書が刊行されるわけではなかった。西村氏も長編は、年に一冊程度のペースである。ようやく一九七一年に『名探偵なんか怖くない』など七冊が刊行され創作活動に勢いが出てくる。一九七三年には十津川警部の初登場作『赤い帆船(クルーザー)』が刊行された。そして一九七八年、トラベルミステリーの第一作で四十冊目の著書となる『寝台特急殺人事件』が初のベストセラーとなった。

初のトラベルミステリ―だった『寝台特急殺人事件』(光文社刊)

この『寝台特急殺人事件』までが各駅停車に乗っての旅だったとすれば、以後は快速、急行、特急、さらには新幹線へと、どんどんスピードを上げての旅である。

『寝台特急殺人事件』から百冊目の短編集『トンネルに消えた…』までのあいだに、『特急さくら殺人事件』(一九八二)や『寝台特急「紀伊」殺人行』(一九八二)といった、特定の列車に着目した作品群が存在感を増していく。『東北新幹線殺人事件』(一九八三)のように、新しい路線や列車をいち早く舞台とする流れもできた。『オホーツク殺人ルート』(一九八四)や『東京駅殺人事件』(一九八四)と、タイトルに統一感があるシリーズの第一作も刊行されている。百冊目までに西村氏のトラベルミステリーの基礎は固まったのだ。

百冊目から二百冊目までは七年弱しかかかっていない。一年になんと十四冊の刊行ペースである。『宗谷本線殺人事件』(一九九〇)で〈本線シリーズ〉がスタートした。『伊勢・志摩に消えた女』(一九八七)のような〈消えた女シリーズ〉も注目される。

一九八七年四月に国鉄が民営化され、JRグループが鉄路を引き継いだ。その前後には多くの赤字ローカル線が廃止されたが、民営化によって日本の鉄道に新しい時代が訪れたと言える。乗客を増やす努力が見られるようになった。それは西村作品に新しいテーマをもたらすことになる。

百五十冊目である上下二冊本の大作『十津川警部の挑戦』(一九八八)で、〈十津川警部シリーズ〉がスタートする。もちろんそれまでも十津川警部のシリーズなのだが、以後、タイトルに「十津川警部」を冠した作品が増えていくのだ。『十津川警部の怒り』(一九九〇)など、当初は、かのシャーロック・ホームズにならってか、短編集のほうが目立っていた。

大ヒットした〈十津川警部〉シリーズ『十津川警部の挑戦』(小社刊)

また、『パリ発殺人列車』(一九九〇)、『オリエント急行を追え』(一九九一)、『パリ・東京殺人ルート』(一九九一)、『十津川警部・怒りの追跡』(一九九一)と、海外を舞台にした作品の目立つのも、百冊目から二百冊目までの特徴だ。一九八九年、フランスで行われた国際推理小説大会に出席したことが、大きな刺激となったのだろう。

そして、この間の最大のトピックは、『特急「おおぞら」殺人事件』(一九八七)や『特急「富士」に乗っていた女』(一九八九)での北条早苗刑事の登場である。警視庁捜査一課十津川班の紅一点は、最初、テレビ朝日系土曜ワイド劇場「西村京太郎トラベルミステリー」の第四話「寝台特急あかつき殺人事件」(一九八三)に、ドラマオリジナルのキャラクターとして登場した。それが好評で、小説のほうにも登場するようになったのだ。女性が被害者や容疑者となった事件に、とりわけ北条早苗刑事の活躍する姿がある。

二百冊目から三百冊目までは八年弱かかっている。このちょっとしたペースダウンは、一九九六年に数か月、西村氏が病気治療に専念しなければならなかったせいだ。幸いにしてすぐ回復し、以前の創作ペースに戻っている。その病気療養の直前に書き上げられたのが『浅草偏奇館の殺人』(一九九六)だった。昭和初期の浅草で起こった連続殺人事件が、五十年の時を隔てて解決される異色作で、長年あたためていたテーマである。

一九九四年十月十四日の第一回「鉄道の日」には、鉄道功労者として当時の運輸大臣から表彰を受けた。多くの人を鉄道の旅に誘った西村作品だけに、読者からすれば、何度表彰されても足りないと思うだろう。

『九州特急「ソニックにちりん」殺人事件』(一九九六)や『秋田新幹線「こまち」殺人事件』(一九九八)といった新しい路線・列車に着目しての作品の一方で、『陸中海岸殺意の旅』(一九九五)や『伊勢志摩殺意の旅』(二〇〇〇)のように地域に着目した作品も目立ってくる。

三百冊目から四百冊目までは六年しかかかっていない。この間の最大のトピックは、二〇〇一年九月に湯河原に「西村京太郎記念館」が開館し、「西村京太郎ファンクラブ」が発足したことだ。病気療養に際して訪れた湯河原の気候や風土に魅かれた西村氏が、京都から転居したのがきっかけである。全著作のほか、生原稿や鉄道の大ジオラマ、秘蔵コレクションなどが展示され、湯河原の人気観光スポットとなった。

『東北新幹線「はやて」殺人事件』(二〇〇四)や『九州新幹線「つばめ」誘拐事件』(二〇〇五)のように、東北新幹線の延伸と九州新幹線の一部開通が創作意欲を刺激している。『上海特急殺人事件』(二〇〇四)、『韓国新幹線を追え』(二〇〇五)、『十津川警部、海峡をわたる 春香伝物語』(二〇〇六)と、アジアにも推理の旅を展開していく十津川警部だ。そして三百九十九冊目となった『十津川村天誅殺人事件』(二〇〇六)でついに、その名の由来となった奈良県十津川村を訪れている十津川警部だった。

四百冊目から五百冊目までも六年かかっていない。『十津川村天誅殺人事件』もそうだったが、この間はとりわけ歴史への興味が濃厚である。『十津川警部 幻想の信州上田』(二〇〇六)、『十津川警部 二つの「金印」の謎』(二〇〇七)、『天草四郎の犯罪』(二〇〇八)、『妖異川中島』(二〇〇九)、『悲運の皇子と若き天才の死』(二〇〇九)、『十津川警部 謎と裏切りの東海道』(二〇一〇)……。古代史から太平洋戦争まで、幅広い時代が取り上げられていた。

一方、『鎌倉江ノ電殺人事件』(二〇〇九)、『富士急行の女性客』(二〇一〇)、『十津川警部 銚子電鉄六・四キロの追跡』(二〇一〇)、『生死を分ける転車台 天竜浜名湖鉄道の殺意』(二〇一〇)、『出雲殺意の一畑電鉄』(二〇一一)と、ローカルながらユニークな私鉄を集中的に取り上げ、鉄道ミステリーに新境地を見せている。

二〇一二年三月に刊行された『十津川警部 秩父SL・三月二十七日の証言(アリバイ)』で、西村京太郎氏のオリジナル著書が五百冊に達した。以後も一年に十作以上の新作長編を出し続け、十津川警部は日本全国を駆け回っているのだが、二〇一七年十二月刊行の『北のロマン 青い森鉄道線』で到達した六百冊目まで、さらにその後で目立つのは太平洋戦争を背景にした作品群である。

『十津川警部 七十年後の殺人』(二〇一四)、『沖縄から愛をこめて』(二〇一四)、『暗号名は「金沢」 十津川警部「幻の歴史」に挑む』(二〇一五)、『十津川警部 八月十四日夜の殺人』(二〇一五)、『東京と金沢の間』(二〇一五)、『「ななつ星」極秘作戦』(二〇一五)、『十津川警部 特急「しまかぜ」で行く十五歳の伊勢神宮』(二〇一五)といった多くの長編がある。

晩年も精力的に作品を刊行し続けた

とりわけたびたびテーマとなっていたのは特別攻撃隊、いわゆる特攻で、『郷里松島への長き旅路』(二〇一四)、『知覧と指宿枕崎線の間』(二〇一八)、『私を愛して下さい』(二〇二〇)などで、その作戦の理不尽さが繰り返し書かれていた。エッセイの『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』(二〇一七)も必読だろう。一方で、『リゾートしらかみの犯罪』(二〇一七)、『十津川警部 九州観光列車の罠』(二〇一八)、『能登花嫁列車殺人事件』(二〇一八)など、各地の特色を生かした観光列車が舞台となっている作品群も特徴的だった。  一時期より減ってはいたにしても、途切れなく新作は刊行されていた。いつまでも西村作品とともに日本各地を旅することができると思っていた。牽引車はまだまだ多くの列車を連結していくと信じていた。その喪失感は計り知れない。

トラベルミステリ―執筆に取材旅行は欠かせなかった(二〇一三年、三陸鉄道・宮古駅にて)

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