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本格ミステリの最高傑作 千街晶之(ミステリ評論家)

2022年6月文庫新刊 貫井徳郎『プリズム』作品解説
本格ミステリの最高傑作 千街晶之(ミステリ評論家)

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二〇二二年は、貫井徳郎が小説家デビューして三十年にあたる。
  一九六八年生まれの著者は、第四回鮎川哲也賞の最終候補になった『慟哭』が東京創元社の叢書「黄金の13」の一冊として刊行され、一九九三年にデビューした。連続幼女誘拐殺人事件を担当する捜査一課長と、娘を失った絶望から新興宗教にのめり込んでゆく男という二つの視点から構成されたこのトリッキーなサスペンス小説は、後に再評価されてベストセラーとなっている。

著者はその後、本格ミステリから警察小説、犯罪小説、非ミステリにまで及ぶ多彩な作品群を発表しているが、社会問題をテーマにしたヘヴィーな作品から軽快でコミカルな作品まで作風の幅は広く、短篇においても鋭い切れ味を示している。『乱反射』(二〇〇九年)で第六十三回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)を、『後悔と真実の色』(二〇〇九年)で第二十三回山本周五郎賞を、それぞれ受賞した。

そのような著者の作品群の中でも本格ミステリ路線の最高傑作とされるのが、本書『プリズム』である。一九九九年十月に実業之日本社から単行本として上梓され、二〇〇三年一月には創元推理文庫版が刊行された。今回の再文庫化によって、久々に実業之日本社に里帰りしたかたちとなる。

本書は、「虚飾の仮面」(初出《週刊小説》一九九七年十一月二十八日号・十二月十二日号)、「仮面の裏側」(初出《週刊小説》一九九八年七月十日号・七月二十四日号)、「裏側の感情」(初出《週刊小説》一九九八年十一月二十七日号・十二月十一日号)、「感情の虚飾」(初出《週刊小説》一九九九年七月九日号・七月二十三日号)の四章から成っており、それぞれ視点人物は異なる。四人の男女の視点から綴られるのは、ある変死事件だ。

小学校教師の山浦美津子が、自宅で死体となって発見された。傍らに転がっていたアンティーク時計によって撲殺されたらしいが、事故死の可能性もあるという。また、解剖によって彼女の体内からは睡眠薬が検出されたが、それは自分で服んだものではなく、何者かから送られたチョコレートに仕込まれていた。チョコレートを宅配便で送った差出人の名前は、山浦の同僚の男性教師。他殺だとすれば、物取りか変質者の仕業か、恋愛のもつれか、それとも怨恨が原因か?

本書には事件を捜査する刑事も登場するものの、作中では必要最小限の出番以外、さほど重要な役割を与えられていない。真相を探るのは四つの章の主人公たちであり、彼らはそれぞれの理由から犯人を知ろうとして、推理により自分なりの結論に辿りつく。

ミステリファンが本書を読んだ場合、真っ先に連想するのはイギリスの作家アントニイ・バークリーの代表作『毒入りチョコレート事件』(一九二九年)だろう。ユーステス・ペンファーザー卿に宛てて送られてきたチョコレートをベンディックス夫妻が譲り受けて口にしたが、仕込まれた毒でベンディックス夫人が死亡してしまったという怪事件を、作家にして素人探偵のロジャー・シェリンガムを会長とする「犯罪研究会」のメンバー六人が、各自の推理によって解決しようとする……という内容の『毒入りチョコレート事件』では、一つの事件に対して八通りもの解決(メンバーは六人だが、そのうち一人は二通りの推理を披露しているし、警察の推論も含めれば八通りとなる)が提示されている。

『毒入りチョコレート事件』に対しては、同じイギリスの作家であるクリスチアナ・ブランドが、「『毒入りチョコレート事件』第七の解答」(《創元推理》一九九四年春号掲載)で新たな解決を披露しているけれども、この多重解決の趣向は日本の作家、特に「新本格」以降の作家の挑戦意欲を大いに刺激したようで、芦辺拓が『探偵宣言 森江春策の事件簿』(一九九八年)所収の「殺人喜劇のCニトロベンゼン6H5NO2 ――森江春策、余暇の事件」で、ブランドの短篇を踏まえた上で更に第八から第十三までの別解を提示したほか、米澤穂信『愚者のエンドロール』(二〇〇二年)、西澤保彦『聯愁殺』(二〇〇二年)、北山猛邦『踊るジョーカー 名探偵音野順の事件簿』(二〇〇八年)所収の「毒入りバレンタイン・チョコ」などの作例が思い浮かぶ。更に近年の作例では、井上真偽『その可能性はすでに考えた』(二〇一五年)や深水黎一郎『ミステリー・アリーナ』(二〇一五年)などの多重解決ミステリが同じ系譜に連なっている。

『プリズム』も、被害者が睡眠薬入りチョコレートを食べさせられていた点を見ても『毒入りチョコレート事件』を意識して執筆されたことは明白だが(本書の「あとがき」でも『毒入りチョコレート事件』およびブランドと芦辺の作例が言及されている)、本書の執筆時期には当然、今世紀に入ってからのオマージュ作品は生まれていないので、『毒入りチョコレート事件』を意識した作品としては早い時期の作例と言える。

この「あとがき」では、エドガー・アラン・ポオの「マリー・ロジェの謎」(一八四二~四三年)を重視している点も注目される。著者によれば、探偵オーギュスト・デュパンが登場するポオの三作品のうち、「モルグ街の殺人」(一八四一年)は意外性の重視によって本格ミステリの主流となり、「盗まれた手紙」(一八四五年)は逆説的論理によってG・K・チェスタトンや泡坂妻夫を生む流れを作ったのに対し、デュパンが新聞記事をもとに安楽椅子探偵的に推理を繰り広げる「マリー・ロジェの謎」は、バークリーやブランドやコリン・デクスターらの、推理の構築と崩壊によって物語を展開させる流れを生んだ。しかしこの第三の作風だけは、最終的な結末があまり重要視されない――というのが著者の見解なのである。

とすれば、本書において著者が挑みたかったこともおのずと明らかになるだろう。『毒入りチョコレート事件』は、ブランドや芦辺が別解を提示したとはいえ、最後の推理が正解と見なされることが多い。ブランドやデクスターの作品群においても、最終的な解決は確実に存在している。だが本書では、「虚飾の仮面」「仮面の裏側」「裏側の感情」「感情の虚飾」というしりとりめいた章題が示すように、どこから読んでも差し支えないメビウスの環のような構成となっている。『毒入りチョコレート事件』では最初の推理から次の推理へと進んでゆくたびに説得力が増すようになっているけれども、本書ではある人物の推理が次の人物による推理を誘発するという点では『毒入りチョコレート事件』と共通する構成でありながら、すべての推理の説得力(および、それと裏腹の信用ならなさ)を横並びに等価とする……という、一ランク高いハードルと言うべき超絶技巧に挑戦しているのである。

本書に関してはもうひとつ、その後の著者の作風の転機となったという見方も、今から振り返れば可能ではないだろうか。四人の視点人物、そしてその他の登場人物たちの目に、被害者の山浦美津子はどのように映っていたのか。ある人物にとっては好ましい教師、ある人物にとっては純真すぎて鬱陶しく感じられるほどの「いい人」……といった具合に、見る人、見る角度によって美津子のイメージは変わってゆく。しかしそれは彼女の側だけの問題ではない。イメージがバラバラなのは、彼女を見る人間の主観を反映した結果でもあるのだから、それらのイメージ自体が観測者たちの立場や人間性を逆照射しているとも言えるのだ。

そう考えれば、本書が著者の代表作『愚行録』(二〇〇六年)へとつながる作品であることは明らかだろう。『愚行録』は、殺された夫婦の人となりを知る人々の証言の連なりで構成された小説だ。ここでも登場人物の視点の違いによって被害者たちのイメージは変化を遂げるけれども、それだけにとどまらず、被害者たちを指弾し、自分はまともであるかのように装おうとする人々の愚かさもまた炙り出されてゆく。

また、推理が次の推理を誘発する本書の構図は、巨大な悪意ではなく無数の人々の些細な罪が重なって悲劇を生む『乱反射』のドミノ倒し的因果関係を予告しているとも言えるし、殺人を犯すとは誰からも思われていなかった男による凶行の真の動機に迫ろうとする『微笑む人』(二〇一二年)は、ミステリとしての決着のつけ方に本書と通じるものがある。近年の作品では、ある男が無差別大量殺人を起こして自殺した事件を扱った『悪の芽』(二〇二一年)に注目したい。自分が過去に彼をいじめたことが犯行の遠因ではと懊悩する主人公は、事件の背景を調べはじめる。だが、犯人が既に死んでいる以上、辿りついた結論が真実だという保証はない。

これらの作品に共通するのは、本来なら中心となるべき要素の不在である。悪意の不在、動機の不在、真実の不在――著者はその空白を、被害者や加害者といった直接的な当事者にとどまらず、彼らを取り巻く人々の思考や証言によって埋めてゆこうとする。しかし、その結果として完成したジグソーパズルは、やはり中心となる一ピースを欠いたままなのだ。こうした構図に早い段階で挑んだのが『プリズム』であると考えるなら、本書こそは著者の作風の中で一大転機だったと位置づけられるのではないか。

さて、二〇二二年は冒頭に触れたように著者のデビュー三十年であり、同時に実業之日本社の創業百二十五周年にもあたる。それを記念して、本書の再文庫化に続き、八月には『追憶のかけら』(二〇〇四年)が、十月には『罪と祈り』(二〇一九年)が実業之日本社文庫から刊行される予定である。貫井徳郎の小説家としての歩みを振り返る絶好の機会が、今まさに訪れたと見るべきだろう。

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