『水族館ガール9』刊行に寄せて
「水族館とはなんぞや」を問い続けて フィナーレのその先へ―― 木宮条太郎
もう二十年近く前のことです。
ある水族館関係者の方とお話しする機会がありました。水族から海洋環境までお詳しい方で、プロ中のプロと言える方です。当然、「大自然と水族館の素晴らしさ」についてのお話を期待していたわけですが。
「水族館って、いったい、何なんでしょうね」
開口一番、思いもせぬことを仰せになりました。
「巨額を投じて、得られるのは疑似自然に過ぎません。この仕事の意義は何なのか。そのことについて、私はずっと考えています」
私は驚いてしまいました。どんな職業であれ、プロと呼ばれる人は、どこかしら、己の技能と知識に酔うところがあるものです。が、そんなところが全く無い。自己懐疑的とも言える姿勢なのです。自分の立ち位置を冷静に分析し、葛藤なされている。
「水族館とはなんぞや」
実は、当時、このことを真正面から問おうとする熱気が、全国各地にありました。ちょうど時代はネットの普及期。新しい媒体を得て、多くの水族館関係者が思い思いに「水族館とは」を語り出したのです。むろん、考え方は人それぞれ。まさしく甲論乙駁の状態でした。
マニアックだな。
当初、私はそう思いました。が、程なく気づいたのです。内容は様々でも、どの主張にも独特の匂い――「生き物相手のプロ意識」があることに。そのプロ意識に、どんな職場でもある「お悩み」が、何気なく混じっている。なんとも奇妙なコントラストに、私は惹かれてしまいました。そして、思ったのです。この人達を描きたい、と。
こうして『水族館ガール』は始まりました。
本格的に取材を始めて十数年。通信技術は発展し、ネットも当たり前の世となりました。水族館の情報発信も組織的なものとなり、その内容も分かりやすいものへと変わっていったのです。本来は歓迎すべき事態なのですが。
「かわいいよ」「きれいだよ」「見に来てね」
意外や意外。どこの水族館も、同じことを言い始めました。実際、どこを訪れても、既視感に包まれます。あの甲論乙駁の熱い人達は、どこに行ったんでしょうか。これも時代の変遷? それとも、スタッフの皆さん、すっきりしちゃったんでしょうか。
いえ。そんなわけがないのです。
水族館とは『水棲生物を陸上にて飼育する』ところ――二律背反からは逃れられません。水族館スタッフにとって、葛藤は職業病でもあります。では、この現状は、どういうことなのか。
こうなれば、内情を知る人にきくしかない。そこで、冒頭でご紹介したプロの方です。既に引退されているのですが、近所の海岸を毎日散歩なされています。そこをつかまえ、尋ねてみたのです。すると、また、思いもせぬ言葉が返ってきました。
「口に出せなくなっちゃったんですよ」
どうやら、葛藤そのものは、昔より強くなっているようなのです。しかしながら、語るに語れない。結局、モヤモヤしたものを抱え続けているとのこと。
モヤモヤって、なに?
「悩ましい、いや、ちょっと際どい話なんですよ。水族館ガールの題材としては無理だと思いますね。コメディムードなんて吹っ飛んでしまいますから。それじゃあ、木宮さんも困りますよね」
確かに、それは困る。
今巻にて、物語はフィナーレ。主人公達の結婚がどうなるか、決着をつけねばなりません。おまけに、前巻で水族館の存続危機を持ち出してますから、その決着も必要です。これ以上、ややこしくなると、物語が破綻しかねない。けれども……『水族館ガール』は水族館という職場を描こうとして始まった作品なのです。目をそむけるわけにもいかない。
「どうなっても知りませんよ」
聞き出してみれば、確かに、悩ましい事柄でした。全ての葛藤はここに端を発していたのか、とも思える事柄です。私は納得しつつ、頭を抱え込んでしまいました。実に悩ましい。下手をすると、水族館好きの人達にケンカを売ることになりかねない。
「だから、言ったんですよ」
ですが、物書きには、奥の手があるのです。悩ましい問題を主人公達へと丸投げ。あとは、ただ、その行動に任せます。しかし、事が事だけに、彼らも対応しきれるかどうか。
『水族館ガール9』
問題に主人公達はどう向き合ったのか。そして、それは正しかったのか――水族館スタッフの方も口になさらぬ問題ですから、正解など無いのでしょう。
それゆえ、その判断は……読者の方に委ねたいと思うのです。