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ぜんぶ、国広富之のせい 佐藤青南

22年9月単行本新刊『犬を盗む』刊行に寄せて
ぜんぶ、国広富之のせい 佐藤青南

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『噂の刑事トミーとマツ』というドラマをご存じだろうか。

女性にモテモテのイケメン新人刑事トミーを国広富之が、粗野でだらしないけど人情に厚い野性派刑事マツを松崎しげるが演じるコメディータッチのバディもので、幼いころ毎週楽しみにしていた。とはいえ放送されていたのは一九七九年から一九八二年で、いまから四十年以上も前の話。しかも当時の僕は幼稚園から小学校に上がるくらいの年齢だったため、細かい内容までは覚えていない。記憶にあるのは、普段は気弱でヘタレなトミーが、ピンチになると怒りのスイッチが入り、謎の拳法を操って悪者たちをやっつけてしまうこと(マツがわざとトミーを罵ってスイッチを入れていた)、スイッチが入るときにトミーが耳をピクピクと動かすこと(鏡に向かって耳を動かす練習をした)、そしてトミーが極度の犬恐怖症だったことぐらいだ。

肝心の筋立てはほとんど思い出せないのに、小型犬に吠えられたトミーが電柱をよじ登って逃げ、そのまま降りられなくなって助けを求めるシーンだけは、いまでもはっきりと脳裏に描くことができる(もしかしたら時間の経過とともに記憶が歪んでしまっている可能性はあるが)。

なぜいまこんな話をするかと言うと、案外、僕の犬嫌いの源泉はそこにあるのかもしれないと考えたからだ。いまでこそ自宅で待つ愛犬のために飲み会を中座してさっさと帰宅したり、「ペット可 レストラン」で検索して見つけた店に愛犬をともなっていそいそと出かけたり、担当編集者から犬をテーマにした小説を書いて欲しいと注文されるようになったが、以前の僕は大の犬嫌いだった。否、嫌いというより恐怖症だ。それこそ『トミーとマツ』のトミーのような。

両親が動物嫌いで犬が身近でなかったせいだとか、そのくせ僕が幼いころの九州の片田舎ではまだ野良犬が普通に街中を闊歩していたり、飼い犬でも放し飼いが珍しくなかったために、登下校の通学路で出会い頭に遭遇する機会が多かったせいだとか自己分析していたが、今回この原稿を書くにあたって、夢中になっていたドラマの影響という可能性に、新たに思い至った。たかがドラマと侮るなかれ。物語には力がある。そして物語を吸収する年齢が低ければ低いほど、フィクションと現実の境は曖昧になる。『トミーとマツ』がスタートしたとき、僕はまだ四歳だった。

まっさらな感性の幼児の前に颯爽と現れた憧れのヒーロー。八面六臂の活躍で悪者たちをねじ伏せる強い男にはしかし、弱点があった。犬だ。無敵のトミーですら恐れる存在。「犬=恐ろしいモンスター」という歪んだ認知が刷り込まれた可能性も、完全に否定することはできないのではないか。憧れのトミーが恐れるのだから、自分も恐れるべきだ、というわけだ。幼い僕はトミーを同一視し、経験してもいないトラウマを抱えてしまうという、いわば洗脳に近い状態にあったのかもしれない。

なんと罪深いトミー!

本物の国広富之は、たぶん犬嫌いでもなんでもなかったはずなのに!

国広富之に(勝手に)洗脳されてしまった僕は、友人の飼い犬におそるおそる触らせてもらったりして地道な努力を続けたものの、犬恐怖症を完全に克服するまで三十年近くもの歳月を要してしまった。

昭和時代に田舎で幼少期を過ごした人間にとって、犬が苦手という一点で生活がどれだけ不便だったことか。ちょっと近所に出かけるだけでも遠くに野良犬や放し飼いの犬を見つけたらルート変更を余儀なくされ、はてしない遠回りを重ねる羽目になった。くるりと踵を返して早足で遠ざかりながら、いま目が合った犬が自分に興味を抱いたのではないか、追いかけてきてやしないかという恐怖に視界が狭く、呼吸が浅くなる。すると今度は前方に別の犬を発見し、全身が硬直、またも進路変更……という具合に、目的地に向かうルートの選択肢は削られていく。実際に外出を諦めたことも、一度や二度ではない。

犬恐怖症を克服し、愛犬家に転じたいまとなっては、昔の自分を滑稽に感じるし、物理的にも時間的にも必要のない遠回りだったとも思う。

幼少期に『噂の刑事トミーとマツ』に夢中になっていなければ。

だからぜんぶ、国広富之のせいだ。

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