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書店員として絶対やってはいけないこと 新井見枝香(エッセイスト・踊り子)

2023年2月文庫新刊 下村敦史『ヴィクトリアン・ホテル』ブックレビュー
書店員として絶対やってはいけないこと 新井見枝香(エッセイスト・踊り子)

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書店でアルバイトを始めたばかりの頃、デートの予定が入った上司の代理で、某文学賞授賞パーティーに出席したことがある。自分宛ではない招待状を片手に、一流老舗ホテルの会場に足を踏み入れると、髪を巻いた女性が近づいてきて、銀盆に載せたグラスを手渡してくれた。クラシカルな白いブラウスと黒のロングスカートという揃いの姿は、年末の第九を思わせる。バイト上がりのすっぴんで、黒のパンツに黒のパーカーという自分は場違いだ。まるで『ヴィクトリアン・ホテル』の、〈鳳凰の間〉に迷い込んだ三木本貴志のようである。黒のジーンズに同色のジャケットを羽織った彼と私の違いといえば、髭面かそうでないかくらいだ。

三木本は、自分にやさしくないこの世界を憎んでいた。貧乏な家、親の抑圧、学校でのいじめ、長続きしない仕事。ついにバイト先の金を盗んで逃げ出し、家賃を滞納した家にも戻れなくなった彼は、人生の最期に豪遊してやろうと、ヴィクトリアン・ホテルに飛び込んだのだった。

会場に並ぶ食事は、どれも食べたことがないご馳走ばかり。立食パーティーでは、いくらでも食べてかまわないが、ほとんどの参加者はちょっと皿に取ってつまむ程度だ。主役である受賞者はもちろん、編集者も作家も書店員も挨拶や名刺交換に忙しい。ローストビーフのカットサービスに何度も並んでは、誰とも喋らず、会場の隅に座ってがつがつ食べるなんて、名刺を持たないあの頃の自分か、三木本くらいだろう。

しかし、明日も出勤して月末には給料をもらう私と違い、三木本のお先は真っ暗だ。彼はホテルの客から財布を盗み、ホテル内の高級フレンチでコース料理を食べてしまう。普通の人間は、そんな大それたことをしない。超一流ホテルのスタッフが、彼の行動を不審に思わないわけがないだろう。しかしその馬鹿げた行動が物語を動かし、読者の認識をも攪乱していく。

ヴィクトリアン・ホテルが改築のため、百年の歴史にいったん幕を下ろす。その前日にホテルを訪れたのは、大女優を母に持つ、休業中の俳優、佐倉優美。彼女とほぼ同時にチェックインした林志津子と夫は、自営の弁当屋を畳み、土地を売り払っても返しきれない借金を抱えていた。林夫妻とホテルのエレベーターで乗り合わせた森沢祐一郎は、超一流企業の宣伝部という立場をエサに、女優の卵を部屋に呼び寄せるような男であり、彼の話をバーで聞く高見光彦は、受賞した文学賞のパーティー会場が、ヴィクトリアン・ホテルだった。そのパーティーで作家が述べた≪主人公が現実の多くの人々の価値観で行動したら、そこで物語は終わってしまう≫という言葉の〈主人公〉は、彼ら全員のことを指すのだろう。それぞれが物語を抱えていた。

しかし、それを真に受けて、全ての行動やかすかな歪みも「物語だから」と見逃すと、重大なヒントを見落としてしまう。その見極めは実に難しい。小説と同様、現実の世界でも、様々な人がそれぞれの価値観を普通だと思って生きているからだ。そういう人たちとうまく折り合いをつけて生きている現代人の我々は、物語の中の登場人物とも、自分では気づかぬうちに、折り合いをつけてしまうのかもしれない。

書店で働いていると、自分の価値観とはおよそ相容れない本が飛ぶように売れたり、自分が激しく心を揺さぶられた本が誰にも見向きもされず埃を被ったりする。今さらそんなことには絶望しないし、だからこそこれだけの本が店に並んでいるのだ。その中で、書店員が「この本が面白い」と表現するのは、商売としてプラスになると信じてのことだが、もちろんマイナスになることもあり得る。もっと言えば、誰かを救ったりも、傷付けたりもするだろう。お客様からクレームを受けたPOPが、売り上げを大きく伸ばすこともある。POPを誤りとして謝罪することは簡単だが、自分の心だけならまだしも、読んでよかったという誰かの心をも踏みにじることになりかねない。だからといって、それを恐れて最初から何もしなければ、それこそ物語は始まらない。

対して、書店員として絶対にやってはいけないと心掛けたことがある。ひとつは、誰かが救われたかもしれない本を決して貶さないこと。そしてもうひとつは、ミステリ小説のネタバレをしないこと。どういうトリックかどうかも、本当ならトリックがあるのかどうかも、知らないで読んだほうがおもしろいに決まっている。私がこの作品にできることは、何も触れないことである。おもしろかったかどうかも秘密にしたい。しかしおもしろくなければこの仕事は引き受けないので、そこはバレても仕方がない。しかしまったく関係のない話をしたかもしれないし、していないかもしれない。というふんわりした書評で、お茶を濁したいのが本音だ。

あらい・みえか
1980年東京生まれ。書店員として文芸書の魅力を伝える企画やイベントを仕掛ける。2020年からストリップ劇場の舞台に立つ。近著に『きれいな言葉より素直な叫び』、千早茜との共著に『胃が合うふたり』。

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