23年7月文庫『水族館メモリーズ』刊行に寄せて
水族の魅力をより深く、より幅広く。木宮条太郎
もう三、四年前のことになるでしょうか。
ある水族館での出来事です。私、クラゲ展示フロアの片隅に座っておりました。取材を兼ね、癒やしの空間を堪能していたのです。すると。
「マル、マル、マルッ」
突然、大きな声が響きわたりました。目をやると、そこには幼い男の子。フロアを走り回っているのです。私は胸の内で呟きました。マルって、なに? 真上から見たクラゲの傘のこと?
「丸い窓っ。どっこを向いても、同じ」
そっちかいっ。
苦笑いするしかありません。一方、男の子はご両親の膝元へ。声を弾ませ「クラゲばっかし」と言いました。
「見て、見て。みんな、動いてる」
動いてる? クラゲは生き物、当たり前じゃないですか。せめて「漂ってる」って言ってくれないかな――そう思ったものの、出しゃばるわけにもいかない。私は苦笑いしたまま、バックヤードへと移動しました。スタッフの方に取材するためです。まずは、先程の光景について、面白おかしく話してみたのですが……。
「その子、よく見てますねえ」
思いもしない言葉が返ってきました。
「丸い窓。そうなっちゃうんです。岩も水草も無し。丸い視野にクラゲだけ。『漂ってる』だけじゃないんですよ。よく見れば分かるんですが、揃って、微妙に『動いてる』んです。観覧車みたいに」
あのう……それって、新しい展示手法の話?
「いえ、どちらかと言えば、生態の話でしょうか。クラゲの場合、必要にして不可欠。だから、別に新しい話じゃないです。今も昔も生態は同じ。変わるわけないですから」
もう、何が何やら分からない。
質問を繰り返してみて、ようやく理解できました。男の子は正しかったのです。彼の言葉は、まさしく「クラゲの本質」を突くものでした。思い込みや先入観が無いからこそ、為しえたことなのでしょう。それと比べて、私はどうか? じっくりと観察していたつもりでした。けれど、結局、ありがちな「イメージ」に酔っていただけ。何も見ていなかった。
負けた――そう思いました。
私は、十年程の間、水族館を舞台にした小説を書いてきた人間です。なのに、子供に負けてしまった。これは悔しい……しかしながら、物書きには、「悔しい」を昇華させる手があるのです。この思いを物語にしてしまえば良い。
「次の話、クラゲにしていいですか」
早速、編集者の方に電話を入れました。もう意地です。負けたままでいるわけにはいきませんから。当時、構想中だったのは『水族館ガール』の第七巻。かくして、その表紙はクラゲが飾ることになったわけですが……。
甘かった。
既に物語は終盤へと動き出しておりまして、クラゲを登場させる場面が無いのです。なんとか入れようと、四苦八苦したのですが、時間切れ。表紙と内容がチグハグになってしまいました。おまけに、男の子には負けたまま、です。これは、よろしくない。
「クラゲ、持ち越します。八巻で雪辱戦を」
八巻へと突入しました。ですが、クラゲの魅力は独特で、他の題材を寄せ付けないのです。そして、またもや、時間切れ。
「クラゲ、持ち越します。九巻で雪辱戦を」
九巻をお読み下さった方はご存じですよね。クラゲは出てきません。おまけに、この巻にて物語はフィナーレ。シリーズは完結してしまいました……あれ?
「木宮さんって、こんなのばっかりですねえ」
編集者の方に言われてしまいました。呆れたような口調で、です。私は、しどろもどろになりつつ、言葉を並べ立てました――行き当たりばったりじゃないんですよ。考えてはいるんです。けれど、なぜか、いつも……。
「そんな題材を集めて、物語にしませんか。水族館ガールのスピンオフ。本編とは少し違ったものになると思うんです。来場者視点での水族館。木宮さんなりの『水族館の見方マニュアル』って感じかな」
そんなこんなで――『水族館メモリーズ』。
相も変わらず、主人公の由香は駆け回ります。相手役の梶も大忙し。二人のぎこちない新婚生活も、ちょっぴり入っています。けれども、テーマは不変。水族の魅力です。より深く、より幅広く。見えていなかったものが、見えてくるかもしれません。ただ……。
マル、マル、マルッ。
あの言葉に勝てたのかどうか。考えてみれば、純朴な言葉です。てらいも、けれん味も無い言葉です。そうでありながら、実に的確。原稿の執筆中、凄みすら感じてしまいました。だからこそ、今、素直に思えます。
こりゃあ、勝てないな、と。