2023年9月単行本『ミドルノート』刊行に寄せて
生まれを選べぬ私たち 朝比奈あすか
私たちは生まれを選べない。場所や親ばかりでなく、生まれる年代も選べない。『ミドルノート』を執筆しながら、そんなことを考えた。
私たちは、選べないものにより、勝手にラベリングされる。「団塊の世代」「バブル世代」……「ゆとり世代」「Z世代」など。ネットで検索したらたくさんのラベルがあった。
昭和五十一年生まれの私が、分類の仕方によって「団塊ジュニア世代」だとか、「ロスジェネ世代」などと言われているのは知っていた。ふーん、と思っていた。世代で勝手にくくられることを窮屈にも感じた。
ただ、「就職氷河期世代」という呼び名は、しっくりきていた。
というのも、私たちは、バブル時代に学生を大量採用していた企業が、バブル崩壊に伴い人件費を削減した後に、就職活動をせざるを得なかった世代だ。新卒採用をとりやめる企業も少なくなかった。私は、たくさんの企業を受けて、その多くに振られたが、友人たちもたいがい苦戦していた。新卒で非正規雇用の道を選んだり、首都圏での就職を諦めて地元に帰ったりした人もいた。
若者は権力がないから、とかく政治からも社会からも捨て置かれる。
数年前に、行政による引きこもり支援は三十九歳までだが、実際は引きこもりで最も多い年代は四十代であるという記事を読んだ。これは就職氷河期世代を、政府や企業がしっかり支えなかったことが大きな事由で、その四十代が五十代に突入し「8050問題」につながっていると思う。自己責任と厳しく扱われるのでは割が合わないくらいに、生まれ年ガチャでやられた人たちがいるのだ。
……と、こんな話をしていると、小説の内容からは遠ざかってしまうけれど、『ミドルノート』を執筆するにあたり、私が考えていたのは、生まれ年が少しずれると、見ている世界がだいぶ違ってくるということだった。
ふだんは小説を書く時に、読者層などは想定しないのだが、この『ミドルノート』という小説は日経BP社の「日経xwoman(クロスウーマン)」というWEBサイトに掲載されたもので、読者層がわりと定まっていた。
掲載当初の編集者と話し合い、私は1990年前後生まれの女性たちを主人公にしようと決めた。例の区分けによると「ゆとり世代」にあたる人たちである。(彼らもまた、大人たちの決めた教育を選びようもなく受けさせられて、勝手に「ゆとり」と名付けられている)。
「ゆとり世代」というとなんとなく若い人たちと思っていたが、いつの間にか彼らも三十代なのである。
三十歳といえば、ミドルノートの始まりだな、と私は思った。
以前、たまたまアロマ関連のワークショップに参加した時に、香水の香りは肌にのせるとトップノート→ミドルノート→ラストノートというふうに、じょじょに変化してゆくという話を聞き、面白いし、何やら暗示的でもあるなと感じていた。そして、人生の変化をこれに重ねるならば、どの世代であれ、成熟の始まりであるミドルノートは、三十歳くらいかなというのが、私の抱いた印象であった。
二十代も、それなりに大人であると当時の自分は感じていたが、思考や言動をふりかえるに、いろいろと甘いところがあった。それこそ私は、この連載をさせていただいた日経BP社には、就職氷河期のさなか新卒で採用してもらったというのに、たいした働きもせずに数年で辞めてしまった。日経xwoman連載中に、『ミドルノート』がアクセスランキングで一位を取れたと聞いて、ほんのわずかに貢献できたのではないかとほっとしたのを覚えている。
と、こんなふうに過去を振り返れるようになった今思うのは、ようやく自分が好きなことや嫌いなこと、得意分野や苦手分野がはっきりしてくるのが、三十歳くらいではなかったかということである。
とはいえ、三十歳もまだ、人生の選択の出だしのあたりにようやく立ったかなというくらいの年齢である。書いてみたいなと思い、三十歳の社会人女性の像を思い浮かべた。四人いれば、その中には一人は保活に苦しんでいるママがいるだろうし、一人は専業主婦の道を選ぶ人もいるだろうと、私は考えた。
「主人公は、バリキャリ、保育園探しに奔走する女性、寿退社する女性、といった感じになりますね」
そう告げると、私よりひとまわり若い編集者が、
「うーん。保活に苦しむことや寿退社は、かなりレアケースかもです。今は保育園が、わりと預けやすくなっているんで。少子化ですし、自治体も色々と工夫をしているようです」
と、指摘してくれた。
「え、そうなのですか」
「今は、夫婦で働くのが当たり前って感じで、よっぽどの事情がないと出産、ましてや結婚で、会社を辞めたりはしないです。私の周りも皆、共働きです」
三十代の編集者がそう言うのを聞いて、びっくりしたし、羨ましくも感じた。
その後、編集者は実際のデータを調べてくれたり、それに関する新聞記事などの資料を送ってくれた。実際に、待機児童の数は大きく減っているそうである。
世の中は、知らぬまに良い方向に行っているのだな……
感心した私が、別の場でその話をしたところ、
「いや、働きやすくなったというより、専業主婦になれる人が少なくなっただけでは? そのせいで子供が減って、保育園に入りやすくなっただけでは?」
という指摘もされた。
実際のところ、日本は諸外国の発展に比べ、足踏み状態が続いている。相対的に見れば、貧しくなっているということだろう。賃金は上がらず、子どもを育てるためにパートや派遣といった非正規の形態で働かざるを得ない女性も多い。それでいて、男女の役割分担に関する古い社会通念が蔓延(はびこ)っている日本(2023年のジェンダーギャップ指数で日本は146か国中125位!)では、子育ても家事もまだまだ男性とイーブンには分け合えていないから、「女性が輝く社会」どころか、女性が疲弊する社会になっているという実感は、SNSの声などを聞いていても感じられる。
自分たちが割をくった世代だと思っていたが、国際競争力の落ちた今の日本で生きるゆとり世代の方々も、就職氷河期世代とは違った種類の苦しみや閉塞感を抱えているのかもしれない。
それにしても、ひとまわり年下くらいなら、担当編集者に数人いるし、他にも趣味を通じて知り合った若い友人たちはいて、ふだんは年齢差を感じていなかった(向こうが合わせてくれているのかもしれないが)。
しかし私は改めて、彼女たちに仕事に対する意識や、子育てで感じていることなどを聞く必要があると感じた。十年ひと昔とはよく言ったもので、生まれが十年違うだけで、生きてきた空気がだいぶ違うのだ。
話を聞くとやはり三十代には三十代の、四十代には四十代のものの見方があるし、そこには時代性も大きく影響を及ぼしている。そのことを面白いと思ったし、自分にどんぴしゃりの年代の主人公を描くことに比べて、世代間の差を味わったり、そこに注目したりして、楽しみながら描くことができた。
加えて、執筆期間はコロナ禍とも重なった。あの時期に何歳だったか、どういう立場だったかという観点でも、世代の差はあると思う。
とかく「〜世代」とくくられて単純化されることに抵抗を感じたこともあったが、同級⽣や同期としか共有できない感覚があるのも確かだ。と、同時に、世代を超えて分かり合える普遍的な感情もまた、存在している。私たちは、自分で選ぶことなく生まれながら、様々な偶然の巡り合わせによって人と出会い、それぞれの物語を紡いでゆく。
そんなことを考えながら、三十代という人生のミドルノートの時間を生きる主人公たちを書くことは、とても楽しかった。