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神人さん創作秘話にもならない話 梶よう子

23年12月単行本『商い同心 人情そろばん御用帖』刊行に寄せて
神人さん創作秘話にもならない話 梶よう子

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 この度、諸色調掛の澤本神人を主人公にした第二弾『商い同心 人情そろばん御用帖』を上梓いたしました。それにあわせ、前作『商い同心 千客万来事件帖』(文庫)が装いも新たに再登場。まことにありがたいことでございます。絵師物を書くとき、実体験を脚色し、版元さんは業突く張りで、嫌味ばかりをいう悪役という立場で描かせていただいておりますが、今回は、ちょっぴり認識を改め、感謝申し上げます。
     *   *
 さてさて、商い同心の主人公、澤本神人は、北町奉行所に所属し、諸色調掛というお役に就いている。この役は、物(諸色)の値段が適正であるか、あくどい商売をしていないか、無許可の出版物はないかなどを調査、監督し、不当な値上げや不正があれば、奉行所に召し出し、説諭する。逮捕はしないので、当然、捕物には出ない。
 正式名称は、市中取締諸色調掛で、北町が米、南町が青物や魚の担当で、その値段に目を光らせていたらしい。
 さらにこれが江戸も末期になると、値下掛と潤沢掛のふたつが増え、さらに細分化されている。潤沢掛はなにを取り締まったのかは定かではないが、贅沢品の可能性はある。
 神人さんは、もちろんガチな歴史小説ではないが、登場する北町奉行の鍋島直孝や跡部良弼などの実在の人物から、おおよそ弘化から嘉永に入ったあたりを設定している。もしかしたら、値下掛などが設けられる頃だったかもしれない。
 とまれ実際の諸色調掛は、町名主などから提出された調査資料を処理する内勤めだったようで、本書のように同心が町場のあちらこちらに出張って探偵をすることはなかった──といいきってしまうのは小説として興醒めなので、中にはそうしたとんがった、組織から外れる同心もきっといたはずだし、いたに違いないということで納めていただきたいと思う。
 この作品を描くにあたり、最初に考えたのは、市井を舞台にした捕物でない捕物。勧善懲悪ではなく、善と悪がゆらゆら揺れるような曖昧さを持った物語。
 昨日の常識が、今日は非常識になり、誠実に生きても、不誠実な奴に足蹴にされ、我慢を強いられ、理不尽に身悶えすることもある世の中。
 白黒はっきりつけたほうが、気持ちがいいし、悪は成敗されたほうが、心地がよいに決まっている。
 そうした苛立ちやらをすべてひっくるめたのが、主人公の「なるようにしかならねえ」という口癖だ。
 どうにもならないという諦めの境地ではなく、手を尽くした結果、後は流れに任せるしかない。要するに、人事を尽くして天命を待つ的な意味を持つのではあるが、常に良き方に転がるわけではなく、バッドエンドもあり得る。
 だが、これだと刑事事件で走り回る定町廻りを使って描くのはちょっと違うし、苦しい。
 しかも、当時の時代小説界隈では、他の作品と被らないお役や職業を探そう的な動きがあったのである。
 町奉行所は、現在の警察と役所と裁判所がセットになったような組織であるので、多種多様なお役があるのだが、三廻りと呼ばれる、定町廻り、臨時廻り、隠密廻りは、奉行所の花形であるので、すでに何かしらの作品で使われている。
 その他、吟味方、高積改、定橋掛、人足寄場定掛、風烈廻り昼夜廻り、例繰方──時代小説ファンならば、思い当たる作品がきっとあるはず。養生所見廻りは、拙著「御薬園同心 水上草介」シリーズにちらりと登場する。
 で、面白いと思ったのが諸色調掛だった。神人さんが町を走り回ることで、世界でも類を見ない百万人を抱える江戸の繁栄や、消費都市の姿を浮かび上がらせられるかな、と思ったのだ。しかし、そうした思惑は往々にして、うまくいかないもので、当初、神人さんはクールガイのイメージだったが、相棒の庄太とやり取りをしているうちに、人情系になってしまった。代わりに、かつての同僚だった定町廻りの和泉にその役を引き受けてもらっている。
 長編ではなく短編連作では、キャラクターが良い意味でブレてくる楽しさがある。
 それにしても、前作(単行本)から十年が経っていたとは驚いた。生まれたばかりの赤ン坊が、小学四年生になるという年月である。
 子どものように健やかで、劇的な成長など望むべくもないが、人として色々通過儀礼も体験して、不測の事態に右往左往した。そういう意味では、人生の新たなフェーズに入るのに十分な時間であったと思う。
 でも、これだけ月日が流れたのに、当たり前だが、作中人物たちはほとんど歳を取っていない。前作から一年経ったか、どうかというくらい。うらやましい限りだ。
 まったくの蛇足であるが、神人という名は、某駅の広告看板にあったお名前を拝借した。深い意味がなくて、すみません。

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