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「《希望》と《絶望》はセットだと思っているんです」

木爾チレン『神に愛されていた』刊行記念ロングインタビュー
「《希望》と《絶望》はセットだと思っているんです」

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木爾チレンさんの最新刊『神に愛されていた』。1年ぶりの書き下ろし長篇小説にして、発売後2週間で重版決定という人気ぶり! 2023年の秋冬、全国各地で話題沸騰の本作に込めた著者の熱い想いを、瀧井朝世さんが聞きました。

聞き手/瀧井朝世 まとめ/リッカロッカ 写真/国府田利光

◆《嫉妬》と《才能》の物語を書きたい

瀧井朝世(以下/瀧井)刊行おめでとうございます。とても面白くて、一気に読んでしまいました。

木爾チレン(以下/木爾)ありがとうございます! 瀧井さんにインタビューしていただくのはデビュー作以来なので、この本でまたお話ができて光栄です。

瀧井 こちらこそ、お目にかかれて嬉しいです。そして『神に愛されていた』、凄みのあるお話でした。タイトルを最初に目にしたとき、神聖な感じがしましたが、半ばあたりで視点が変わってから「えっ、まさかこうくるの!?」とびっくりして、ラストで「なるほど『神に愛されていた』とはこういう意味だったのか」と深い納得がありました。

木爾 タイトルは、私が小さい頃からいつも感じていたフレーズでもあるので、今作には特別な思い入れがありますね。ただし、この本における「結論」部分とは少しニュアンスが異なるんですけど。

瀧井 それはどういう……?

木爾 人生の岐路で必ず、期待してくれる人や支えてくれる人が現れたり、思わぬチャンスが訪れるので、そのたびに「神に愛されているのかも」と感じてしまうんです。

瀧井 それはまさに恩寵ですね。しかし、作家が「作家の話」を書くのは難しいことだと思うのですが、なぜこの物語を書こうと決めたのですか?

木爾 そうですね……実業之日本社の担当編集さんから原稿依頼をいただいたのが、たしか2年くらい前で、ちょうど『みんな蛍を殺したかった』が発売された頃だったと記憶しているんですが、そのときは、まず「《嫉妬》と《才能》の物語」を書きたい、というのが根底にありました。それから、映画『アマデウス』のオマージュですね。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとアントニオ・サリエリの関係を、女性作家ふたりの話に落とし込んだら面白いんじゃないかと思ったんです。……あ、タイトルの話に少し戻りますと、実はこの「アマデウス」自体にそのものずばり「神に愛されている」という語意が含まれているんですね。

瀧井 え、そうなんですか! そうなると本当に何重にも意味のあるタイトルだったのですね。でも、『アマデウス』はかなり古い映画ですよね?

木爾 はい。もともと私は映画が好きなので、古いものも片端から観てしまうんですが、中でも『アマデウス』は少し特別で、以前オーケストラの生演奏とともに映画を鑑賞するという企画があって、とても感動して。それで、いつかこの映画から得られたものを下敷きにして、自分なりの物語を紡ぎたいと考えていました。

瀧井 それで全体に音楽的な要素がちりばめられているんですね。モーツァルトの言葉や、「章」ではなく「楽章」という見出しや、登場人物の名前(冴理と天音)も……。

木爾 はい。音楽の話ではないのに、音楽要素を入れたのは「わかる人には(このオマージュに)気づいてほしい」という密かな仕込みですね(笑)。途中に何度も出てくる数字も、大前提として《別の意味》も当然ありますけれど、実は楽譜の「○分の○」という拍子記号をイメージしているんです。

瀧井 なるほど、拍子記号。私は《別の意味》のほうはすぐ察したんですが、それは気がつかなかった。映画『アマデウス』が、今作を読み解く鍵でもあるのですね。

◆デビュー10年目で到達した場所

木爾 とにかくもう、私は『アマデウス』のサリエリに感情移入してしまって。この「決して才能がないわけではないのに、自分よりもっと才能のある人を見てしまうと、ひどく打ちのめされる」というのは、作家なら誰しも一度は味わったことがある感覚なんじゃないかと。

瀧井 辛くなるからよせばいのに、どうしても自分と相手を較べてしまう?

木爾 そうです! でもサリエリの場合、負の感情だけでなく、モーツァルトの才能への尊敬の気持ちがある。嫉妬と憧憬がないまぜになった、一番のファンという側面もあるんですよね。嫉妬の対象は、同時に、憧れの相手でもある。

瀧井 そんな強い感情を、驚きの構成で作品に昇華させたんですね。『アマデウス』オマージュということですが、冴理と天音を音楽家ではなく、また他の職業でもなく、あえて「作家」にしたのは、やはりご自身が作家だからですか?

木爾 そうですね。デビューから10年が経って、産みの苦しみや売れなかったときの悲しさ、売れたときの喜びというような、いろいろなパターンの感情を味わった今だからこそ書ける物語ではないかと思ったんです。こんなに必死で小説に向き合って、こんなに苦しい思いをしてきたんだから、これは吐き出すべきだろうと(笑)。

瀧井 今回のお話には驚きの仕掛けがたくさんあって、特に後半は予測もつかないような展開が待っているわけですが、この「ミステリー」の部分は、書くときに強く意識されましたか?

木爾 どこかに「謎」があると、読む人の興味を引けるのではという意図はありました。人生経験の浅い私が書けるのは、たとえば「少女の痛み」といった過去の自分が経験したことになるので、そこに文芸とミステリーの中間点のような読み口を加えて、両方の「いいとこどり」ができたらと、いつも意識しています。

瀧井 今回も、長らく筆を折っていた作家のもとに、ひとりの編集者がやってきて……という始まり方をしていますね。「なぜこの老作家は、人気絶頂のときに筆を折ったのか?」という疑問を冒頭でズバンと読者に投げかけて、一気に30年という時間を遡っていく。そこから、東山冴理にとっては14歳から33歳までの、そして白川天音にとっては14歳から29歳までの、濃密な時間がじっくりと書かれていました。

木爾 実は今までの私は、長いスパンの物語をほとんど書いたことがなかったんです。でも今回は冴理と一緒に年をとってもらったほうが、冴理に感情移入しやすいのではないかと思って。

瀧井 しっかり感情移入いたしました。作中で冴理は「少女の痛み」を書く作家である、という描写がなされていましたが、これはやはりご自身に重ねている……?

木爾 冴理は私よりずっと人生が過酷で、なおかつ優秀で、しかもデビュー当初から結構うまくやれている作家という設定なので(笑)、重ねていると言ってしまうのはおこがましいのですが、ところどころ自己投影はありますね。たとえば、冴理がデビューのときにスピーチをするシーンでの、いわゆる「受賞の言葉」は、私がかつて実際に言ったものだったりしますし、「ああ、こういう黒い感情芽生えることあるわー」と実感して書いた部分も多々あります。でもそれは、冴理も私もそこまで思い詰めるほど小説を愛しているからで、そういう部分も含めて、この本の執筆にあたっては常に丸裸になるような、自分をしぼりだすような感覚がありました。

瀧井 自身と向き合う……それは、なかなかの苦行ですよね。

木爾 はい。なので、作品に自分を投影しすぎるのは、当分のあいだ、やめておこうと思います(笑)。

◆才能の「果て」にあるものは

瀧井 作中、「才能にはね、果てがあるのよ。ほとんどの作家は、果てに辿り着いたときからが、勝負なの」という印象的で強烈なフレーズがありましたよね。少々興味本位でお訊きするのですが、ひょっとして、これも過去の実体験に基づいていたりするのですか?

木爾 いえ、さすがにそう言われたことはないですね。でも過去に「デビューしただけではまだ作家とは言えない。10冊出してやっと、本物の作家になれると思ったほうがいい」「小説はただ書くことより、適切に削る作業のほうが難しいし、それがプロに求められる技量だ」という言葉を編集さんから聞いたことがあって、「本当にそうだな」と、今でも自分の心の奥に根づいています。

瀧井 今作でも似たフレーズを作中の人物が口にしていましたね。

木爾 今だからこそ、フィクションに落とし込める言葉だったかなと思っています。「作家はデビューしてからのほうが長くてつらい」「この仕事をどう続ければいいのか、いつも霧の中で模索している」という感覚が、作家という仕事を10年続けてみて、リアリティを伴って書けるようになりました。

瀧井 さて……さらに興味本位でお訊きするのですが、この作品において最も重要な「男性」である村田シャープには、モデルになった人物はいるのでしょうか。

木爾 それは全くいないんです。ここは強調しておきますよ(笑)。ただ、物語の中に恋愛要素は取り入れたいと思っていたので、「私だったら、こういう男性が近くにいたら気になってしまうな」「ということは、冴理もこのタイプには沼りそうだな」と思って創作したキャラクターですね。シャープ、作家としてはたぶんまったくタイプではないんですけど(笑)。

瀧井 このシャープ氏も、創作について「自分のなかから膿をしぼりだすような作業」という名フレーズを口にしていますよね。

木爾 私自身、「しぼりだす」ように書かれた小説が大好物なんですよ。たとえば、中山可穂さんの作品なども本当に大好きで……。フィクションが80%から90%を占めている小説であっても、その中に「自分にしか書けない部分」――痛みを伴ってしぼりだした感情を、煮詰めて抽出したもの――が読者をハッとさせることができれば、それが「自分らしさ」だと思うんです。

瀧井 ハッとするといえば、冴理の書く小説のタイトルがどれも素敵で、いかにも冴理らしいなあと感心してしまったのですが。

木爾 それには一部、元ネタがありまして、実はサリエリの楽曲のタイトルを意訳したり、もじったりしたものなんですよ。

瀧井 なんと、そうだったんですね! ここにも『アマデウス』オマージュが。

木爾 はい。とことん寄せていきましたね。

瀧井 同じ賞で見いだされた作家である、というカブリに加え、プライベートでは高校の後輩にあたる天音が同じ大学にも進学してきて、さらには色恋にも侵食してくる、というのは、追われるポジションにある冴理にしてみれば、逃げ場のない苦痛ですよね。

木爾 そうなんですよ。せめて天音が自分の視界に入らない、どこか遠いところで活躍してくれていたら、冴理も心安らかなのに。同じジャンルで背後から迫りくる天才って、もう絶望の象徴ですよね。

瀧井 読者も届く場所も作品によってそれぞれ異なるので、小説には本来、優劣を決める物差しはない。でも、書店での売り上げや業界の評判、SNSの喧噪などが冴理を追い詰めていく様子には共感する創作者も多いんじゃないでしょうか。

木爾 侵食の恐怖というのは、実感としてありますね。偏見をおそれずに言うなら「いかにも女子のコミュニティで起きそう」という……。

瀧井 良くも悪くも相手に「まざりこんでいく」という距離の詰めかたというのはありますよね。

木爾 ありますね! 私、それがとても苦手で。理想は「あなたと私は、それぞれ独立した《個》でいましょう。必要なときに必要な距離感で近づいて、基本はそれぞれの場所で好きに咲きましょう」というのが理想なんですが、なぜか女性同士だとそうはならない。好悪の感情は関係なく、不思議と境界線が曖昧になりがちなんですよ。――あ、これはあくまでも個人の感想ですが(笑)。

瀧井 それはこの作品に隠された裏のテーマかもしれませんね……と、これ以上語るとネタバレ問題に抵触しそうなので、ここで止めておきましょうか。

木爾 そうしてください(笑)。

◆《希望》と《絶望》はセットです

瀧井 テーマといえば、やはりこの作品には、天才タイプの天音と、おそらくは秀才タイプである冴理、プラスとマイナス、光と影、羨望と嫉妬――そんな表裏一体のものが象徴的に表現されていると思うのですが、そのあたりの対比は意図的に書かれていますよね?

木爾 そうですね。最終的にはメインタイトルに帰結するんですけれど、やはり私は「《希望》と《絶望》はセット」だと思っているんです。理想をいえば、誰かの力作を読んで「すごい! 私もがんばろう!」といつも素直に思いたいし、みんなで仲よく幸せになりたい。でも現実には、うまくいっている人がうらやましくて仕方がないし、そんな器の小さい自分に絶望してしまうんですよね。

瀧井 でも、木爾さんは冴理のように筆を折ったりはしない。その原動力はなんですか?

木爾 それはもう単純で、自分の小説が好きだから、です。というか、それ以前の問題として私、小説を書くこと以外、何もできることがないんですよ。

瀧井 そんなことはないでしょう(笑)。

木爾 いや本当に、小さい頃から書くことで救われてきて、小説を書いているときだけ息ができると思って生きてきたので。私にとって人を愛することと、小説を書くことはすごく似ているんです。じっと向き合っているとイライラしたり、執着しすぎて苦しくなったり、少し離れてひとりになりたいと思うこともあるけれど、やっぱり好きで一緒にいたくて愛することはやめられない。だから、どこかでいつか一時の衝動で「作家をやめたい」と思うことがあっても、結局は書くこと自体はやめられないんだろうなと思っています。あとは……私事ですが最近結婚しまして、それでフーッと心が落ち着いたというか、自分のホームグラウンドを得て、焦りから解放された安心感はありますね。

瀧井 先ほど《希望》と《絶望》というお話がありましたが、天音と冴理の書く小説は正反対の作風ですよね。主人公といえる冴理のほうを《絶望》寄りの作風にしたのはなぜですか?

木爾 そうですね……少女時代からの母との複雑で逃げ場のない関係性もあり、冴理は《絶望》を紡がずにはいられないのだと思います。《希望》を書いた作品のほうが一般的には高評価を受けやすいですが、人間の黒いところをえぐるような《絶望》を書いた作品に救われる人も多いですし。

瀧井 ただ、常に素晴らしい《希望》の物語を書く天音と較べられて不利になるという点で、作中において冴理はアンラッキーですね。

木爾 そうですよね。でも実際には、私も《絶望》の物語に触れて「こんな感情を抱くのは私だけじゃなかったんだ」とホッとした記憶がありますし、『みんな蛍を殺したかった』のようなどす黒い《絶望》の作品を発表したとき、意外にも多くの読者さんから熱い支持をいただいて、驚きつつも嬉しかったという経験があったので、やっぱり《希望》と《絶望》はセットだとは思うんです。

瀧井 物語の最初と最後には30年後の世界の描写が入ってきますが、30年前の物語を両側面からじっくり読み解いたあと、この30年後の様子を眺めると感慨深いものがありました。冴理の周囲の人々がどういう人生を送り、どんなふうに自分の「果て」を知ったのかという部分は、ある種の《希望》でもありますよね。しかしそう考えると、果たして「作家に果てはあるのか?」「作家は自分の果てを受け入れられるのか?」という問題も再浮上して……。

木爾 さすがに「もう自分は村上春樹にはなれないな」という事実は受け入れられるとは思うのですが(笑)、「果て」というか、心の波が凪ぐ地点というのはおそらく確実にあって、自分が周囲から求められているところを正確に理解できたときが、それなんだろうと思います。

瀧井 村上春樹といえば、冴理は好きな小説に『ノルウェイの森』を挙げていましたね。

木爾 『ノルウェイの森』は私も大好きで、何度も読み返した作品ですね。それまで「小説とはストーリーを紡ぐもの」と思っていましたし、起承転結でぐいぐい読ませるエンタメも大好きなのですが、この作品に出会って「こういう小説もありなんだ」と、「人の感情にフォーカスした物語」というものに強く感銘を受けたんです。

瀧井 他にも、吉本ばななさんや、森見登美彦さん、綾辻行人さんといった作家さんのお名前も出ていましたね。

木爾 綾辻さん、森見さんは、(冴理と同じ)京都つながりということでお名前を出したんですが、京大ミステリ研なるところは「すごい」「やばい」とよく聞きますので、きっと冴理は合わないだろうなと想像したりして(笑)。吉本ばななさんは大好きで憧れの存在なので、いつか私の作品を読んでいただけたら嬉しいな、という思いをこっそりこめて、お名前を出してしまいました(笑)。

瀧井 この作品で自己投影は封印ということでしたが、次回作の構想などはもうはありますか?

木爾 はい。次は新しい自分に脱皮するような作品が書けたらいいですね。今までもそうですが、今作は特に自分を深掘りしたり、切り取ったりして造りあげた作品でしたが、次からは「自分以外」のことも書けるようになりたいですね。ということで次作は超エンタメ……女子校を舞台にしたデスゲームになる予定です。

瀧井 デスゲーム……!

木爾 また「黒歴史」シリーズの第3弾も準備しているのですが、次の舞台は歌舞伎町になる予定なので、取材をしっかりしないと、と奮闘しています。

瀧井 歌舞伎町をしっかり!? ……どんな取材をされるのか気になりますが(笑)、今作にすべてを注ぎこんだ木爾さんが次にどんな脱皮をされるのか、『神に愛されていた』を読み返しながら楽しみにお待ちしています。本日はありがとうございました。

木爾 こちらこそ、楽しい時間をありがとうございました。

(2023年10月 東京都内にて)
 

きな・ちれん
1987年生まれ。京都府京都市出身。2009年、大学在学中に執筆した短編小説「溶けたらしぼんだ。」で新潮社「第9回 女による女のためのR-18文学賞」優秀賞を受賞。2012年、『静電気と、未夜子の無意識。』(幻冬舎)でデビュー。その後は、ボカロ小説、ライトノベルの執筆を経て、恋愛、ミステリ、児童書など多岐にわたるジャンルで表現の幅を広げる。2021年『みんな蛍を殺したかった』(二見書房)が大ヒット。翌2022年には『私はだんだん氷になった』(二見書房)、2023年には『そして花子は過去になる』(宝島社)を刊行。その後10月に満を持して発売となった1年ぶりの書き下ろし長篇小説『神に愛されていた』は、注目の傑作として発売後2週間で重版決定。

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