逆境の先につかんだ希望
米田 京『ブラインド探偵(アイ)』刊行記念インタビュー
失明のハンディキャップを乗り越え、
本を“読み”小説を“書き”続けてきた米田京さんが、
この4月、デビュー作を刊行する。
「全盲小説家」はいかにして誕生したのか、その背景に迫る。
構成/友清 哲 撮影/蟹 由香
米田さんが完全に光を失ったのは、2009年11月のことだった。発端は2008年6月から治療を受ける糖尿病。これに起因する緑内障により、まず、同年9月に右目の視力を失った。
「思い返せば、それまでにも自覚症状はあったんです。当時はアメリカと東京を行ったり来たりする生活を送っていたのですが、飛行機を降りるたびに足がぱんぱんに浮腫(むく)んでいました。その時は〝エコノミー症候群かな?〟くらいに思っていたのですが、いつもは一晩寝れば治るのに、その日はずっと症状が引かず……。病院で診察を受けたら、そのまま緊急入院することになりました」
出版社勤務を経たあと、オーストラリアに渡って日本語新聞の発行に携わり、帰国後に編集プロダクションを設立した米田さん。米ロサンゼルスでも出版社を興すなど、精力的な活動をつづける矢先の出来事だった。
突然幕を開けた闘病生活に、生活は一変する。糖尿病の治療、そして緑内障の進行を食い止めるために入退院を繰り返したが、手術の甲斐なく左目の視力も失ってしまった。
「医師は私に対して、失明という言葉は使いませんでした。最後の手術を終えたあとも、『しばらく見えにくいと思うけど、そのうち戻るから』と事もなげに言っていたくらいで。でも、一向に光が見える兆しがない。そこで病院を替え、緑内障の第一人者といわれる先生に手術をお願いしたりもしたのですが、やっぱり駄目でしたね。私の場合、もともと視神経が弱かったようで、どうすることもできませんでした」
以来、およそ5年半。米田さんは中途失明者として生きることとなったのだ。
耳で“聴く”読書を通して
小説の世界に埋没
視覚障害者であっても、本を読んだり、文章を書くことは可能である。
スクリーンリーダーと呼ばれるソフトは、デスクトップ上のファイルを流暢な日本語で読み上げてくれるし、デジタル録音図書「デイジー」や朗読コンテンツなどによって、多くの文献を“読む”ことができる。
「当初は本を耳で聞くことに違和感もありましたが、とにかく娯楽や情報に飢えていましたから、そうも言っていられません。仕事をしていた時は多忙で満足に読めなかった小説を、気がつけば一日一冊のペースで読みあさるようになっていました」
実は、本誌『月刊ジェイ・ノベル』も仙台のボランティア団体によって音声化されており、米田さんは我々の目の前で、専用端末が誌面を読み上げていく様子を実演してくれた。まだまだ決して十分とは言えないのだろうが、娯楽の世界でもこうしたバリアフリー化が進んでいることは、なんだか誇らしい事実である。
(左)原稿を「スクリーンリーダー」に読ませながら、推敲を重ねる。(右)「デイジー」の音声を再生する「プレクストーク」。
こうして再び娯楽を取り戻した米田さんは、生来のチャレンジ精神も手伝い、やがて“小説を書く”という大目標を見出すことになる。
当初は「わずか五行のメールを書くのに三時間を要した」と語るように、全盲の身にとって執筆は決して楽な作業ではない。しかし編集者という職業柄、ブラインドタッチに長(た)けていたのは幸いだった。スクリーンリーダーを駆使した文字の読み書き術を、米田さんは次第に物にしていく。
「これまで小説を書いた経験はなかったけど、多くの作品にふれるうちに、一定のパターンがあることに気がつきました。スクリーンリーダーを使った文章入力にもだいぶ慣れていましたし、自分にも書けるかもしれないと思うようになったんです」
それまでにも、ハンデにめげずインターネット通販を始めようと画策するなど、米田さんはどこまでも前向きで行動的だ。
「正直、こうなったらネタにするしかない、という気持ちもあります。私はもともと出版の人間ですから、全盲の人間が書いた小説となれば、それなりに話題になるだろうという計算があるのは当然。企画屋としての心は失っていませんから」
そこで見つけたのが、東京都北区が主催する「北区内田康夫ミステリー文学賞」の募集要項だった。締め切りまでのスパンがほどよく、短編の新人賞である手軽さも米田さんの意欲を後押しした。
全盲の探偵役が活躍する
連作ミステリーが文庫化
かくして米田さんは、3カ月ほどかけて、数十枚の小説を書き上げた。題材は自身と同じく、全盲の境遇にある元週刊誌記者・川田勇が、ガイドヘルパーの弘子の助けを借りながら、身の回りで起こる事件を解決するミステリーだ。
「いざ書き始めてみたら、それほどストーリーや表現などに悩むこともなく、思っていたよりスムーズに作業できたように思います。ただ、改行する際もいちいち行数を上から数えなければなりませんし、不便なことも多々ありました。何より、書いた文章を読み返すことができないので、すべて記憶の範疇で推敲しなければなりません。僕の場合、およそ五枚が書きながら覚えていられる限界だったので、一章を五枚単位で組み立てていくように工夫していました」
そんな視覚障害者ならではの苦労を乗り越え、米田さんの処女作「ブラインドi・諦めない気持ち」は見事、特別賞を受賞する。これは目を見張る快挙であるはずだが、当の本人は「大賞を狙っていたので、少しがっかりした」と言う。なんとも頼もしいかぎりである。
この受賞作を連作化し、4編の新作を加えた『ブラインド探偵(アイ)』が、ほどなく実業之日本社文庫のラインナップとしてお目見えする。米田さんが長年暮らす赤羽の街を舞台に、ある時は団地で起きた心霊騒動を、ある時は全盲ベストセラー作家のゴースト疑惑を、勇と弘子が解き明かしていく小気味のいい短編集に仕上げられている。
小説としてのクオリティは、店頭を彩るあらゆる作品たちと比べて遜色なく、知らずに読めば、視覚障害者が書いた作品と気づく由はないだろう。
全盲のハンデを乗り越え
小説家として開けた未来
「小説を書くと言われた時は、“またおかしなことを言い始めたな”という程度に思っていたんです。どうせすぐに諦めるだろうと高をくくっていたので、予選通過の通知が届いた時には、驚きを通り越して思わず笑ってしまいました」
そう語るのは、米田さんが晴眼者であった頃に出会った和美夫人である。イラストレーターとして活動する傍ら、家事と介助を担う多忙な日々だが、室内はキレイに片付けられ、壁伝いに移動する米田さんの障害になりそうな物は何一つ見当たらない。
印刷された校正紙の確認は、和美さんのサポートが欠かせない。ひとつひとつ読み上げ、チェックする。
「私も必死だったせいか、闘病中のことはあまり覚えていないんです。ただ、彼の視力がどんどん失われていくのを間近で見ていて、絶望的な気持ちになったことは間違いありません。これからどうやって暮らしていけばいいんだろう、と。でも、本人が『見えなくなったら見えなくなった時にできることを考えればいいよ』と平然と言うのを見て、少し安心することができました」
ちなみに作中の主人公である勇は、再生医療によって将来的に光を取り戻す可能性を示唆している。同様の期待は、米田さんにもあてはまるのだろうか?
「今この時点では、(可能性は)ないでしょう。ただ、つい先日もiPS細胞で視神経細胞を作ることに成功したとのニュースがありましたし、アメリカでは脳に直接映像を送る『ブレインポートシステム』という技術も登場しています。もしかするとこの先、どうにかなる日も来るかもしれませんね」
そんな日が来ることを願いながら、これから小説家として全力を尽くしたいと語る米田さん。
一時は絶望したという夫人も、今ではすっかり関西人気質を取り戻し、「逃げ遅れた!」と笑って見せる。
「彼が健常者の頃だったら、いつでもこっちの都合で別れられたんですけどね。こういう状況になってから出ていったら、私がろくでもない人間だと思われちゃう(笑)」
いささかリアクションに困ってしまうが、実に明るいパートナーシップである。
たまのオフには、二人でデートを楽しむこともあるという。光は失っても、幸せを失ったわけでは決してない。まして、小説家として新たな道を歩み始めたばかりの米田さんには今、希望に満ちた前途が見えているかもしれない。
(2015年2月 著者宅にて)
※本対談は月刊ジェイ・ノベル2015年4月号の掲載記事を転載したものです。
よねだ・きょう
1964年東京都生まれ。出版社、編集プロダクション勤務、会社経営を経て、米・ロサンゼルスに出版社を設立。アニメなどJポップカルチャー関連書籍を多数発行。糖尿病性緑内症による失明をきっかけとして、パソコンの画面を読み上げるソフト「スクリーンリーダー」を使用した小説の執筆開始。2013年、「ブラインドi・諦めない気持ち」で第11回北区内田康夫ミステリ―文学賞特別賞・区長賞を受賞。受賞作を第1話とした連作短編を書き上げ、15年4月にデビュー。