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7月の新刊『表参道・リドルデンタルクリニック』刊行に寄せて
現役歯医者による歯科ミステリ 七尾与史

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「歯医者さんだってお医者さんじゃないの?」って思われる方がいるかもしれませんが、医科と歯科ははっきりと区別されています。内科や外科はもちろん眼科も耳鼻科も医科なのですが、どういうわけか歯だけは歯科なのです。もちろん大学も医学部と歯学部とはっきり分けられております。

全国にお医者さんは約三十万人、歯医者さんは十万人いるそうです。全身を扱うお医者さんが三十万に対して、歯だけなのに十万人もいるって多すぎる気もしますね。実際、歯科医院は過飽和で全国津々浦々といったレベルで乱立状態にあります。コンビニやファミレスが一軒もないようなド田舎なのに歯科医院だけは三軒もあるなんてことが珍しくありません。都心部では交差点の四つ角のビルすべてに歯科医院が入居しているなんて風景も見かけます。ある程度の都市にお住まいであればかかりつけの歯科医院は選び放題、むしろ数が多すぎてどこに通っていいのか迷ってしまうことでしょう。とにかく多いんです。

ところで現役のお医者さんによる医療ミステリは珍しくありませんが、現役の歯医者さんによる歯科ミステリってどうなんでしょう。ありそうで思い当たらない。不思議ですよね。歯医者さんはこんなに多いのにどうして誰も歯科をモチーフとしたミステリを書かないのでしょう。そもそもどうして歯医者出身の小説家って少ないのでしょう。

そんな中、現役の開業歯科医師でありながらミステリ作家をやっている七尾与史が「だったら俺サマが書いてやろうじゃないか!」と考えるのは必然でしょう。いや、むしろデビューして五年、どうして今まで書かなかったんだと思われるかもしれません。それは単にネタが思いつかなかっただけです。

これが外科医なら超難易度の高いバチスタ手術とか、精神科医なら多重人格のサイコキラーとかできるじゃないですか。大学病院や大規模病院を舞台にすれば派閥争いとか美人ナースや患者(もちろん美女)との恋愛なんかも絵になります。その他にも医の倫理とか法医学などなど。ぶっちゃけドラマにしやすい素材満載なんですよね。僕がお医者さんだったら医療ミステリばかり書いていたかもしれません。

ところが歯医者はそうじゃないんですよ。やっていることは虫歯の治療とか入れ歯の調整がメイン。たまに矯正やインプラントですか。

「三十秒以内に義歯を入れないとこの患者は死ぬっ!」

なんてスリルもサスペンスもないし、そもそもやっていることが地味すぎてドラマにしにくいんです。昔は歯医者さんといえばお金持ちというイメージでしたし実際にそうだったと思うんですけど、今や歯科医師はワーキングプア業種の筆頭といわれています。当時の華やかさなんて見る影もありません。

でも中にはドラマチックな歯科医院があるのではないか。そんなところからこの物語の着想に取りかかりました。まずは舞台ですね。今回は表参道を選んでみました。僕は浜松市在住で東京にはまったく縁がない人間です。そんな僕からすると表参道という街並みはとても華やかに映るんですよね。こんなところの歯科医院だったら患者さんも芸能人とかセレブとか華やかな人たちがくるのではないか。そんな人たちが引き起こす事件も派手になるかもしれない。

そして本作のコンセプトは昨今の流行であるゆるーい「日常の謎」に対するアンチテーゼです。ストーリーのあらましを聞けば日常の謎っぽいミステリなんですが、実は案外本格です。舞台は歯科医院なのに密室ミステリあり、スリーピングマーダーあり、シリアルキラーあり、舐めてかかると返り討ちに遭いそうな内容になっています。密室ミステリでは医院の見取り図まで提示されますからね。いったいここでなにが起こったのか、どうしてそんなことになったのか、読者の皆さんも推理を追体験できるような構成になっております。

でもその中でも描きたいのはやっぱり歯医者さんたちの日常ですね。僕たちがどんな思いで日々の診療に向き合っているか。こればかりは現役の歯科医師でないと分からないと思います。そして地味な仕事だけにちょっとしたサスペンスやミステリに飢えているのかもしれません。もっとも患者さんたちにとって歯科治療自体が小説や映画なんかよりずっとずっとスリルとサスペンスかもしれませんね。

※本エッセイは月刊ジェイ・ノベル2015年8月号掲載記事を転載したものです。

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