8月の新刊『為吉 北町奉行所ものがたり』刊行に寄せて
予定変更 宇江佐真理
この度、実業之日本社より『為吉 北町奉行所ものがたり』が刊行の運びとなった。
実業之日本社とはデビュー以来からのおつき合いで、担当編集者も途中、交替した時期はあったが、めでたく復帰して今に至っている。私にとって、この出版社のよいところは、あれこれ注文をつけず好きなように書かせていただけたことだろう。それは心底、ありがたかった。プレッシャーもさほど感じず、のびのび書けたと思う。お蔭で、その内の一冊は中山義秀文学賞を受賞することができた。
『酒田さ行ぐさげ』(実業之日本社文庫)の単行本を出した辺りで新たな作品を「ジェイ・ノベル」に執筆してほしいと依頼があった。色々考えた末に、町奉行所の機構を復習する意味の作品にしようと思った。捕物帳の作品を多く書いて来たが、実は把握していない部分が多々あったからだ。普段は目につかない人々にもスポットを当て、結果、町奉行所がよりわかりやすいものになればよいと思った。それも担当編集者と特に相談はせず、自分で勝手に決めたことだった。
雑誌に載せた段階では副題を「狼達の庭」とした。奉行所の役人は幕臣からは不浄役人と貶(おとし)められることもあった。江戸市中の町民が起こす数々の事件を扱う町奉行所の役人は本来の武士の姿ではないと思われていたようだ。不浄役人ではない、強いて言えば狼だ、と強気の姿勢で執筆を始めたのだから、私もまだまだ青臭い人間である。
ところが、執筆の途中で私に乳癌が見つかり、その治療のために休載しなければならない羽目となった。
入院は三日間だけで、あとは三週間に一度、通院して治療を受けるだけなので、執筆には、それほど負担はないだろうと思っていたが、それは大きな間違いだった。気力が湧かないのである。パソコンに近づきたくない。できれば小説なんて忘れたいと思うほど気が弱ってしまったのだ。
私は担当編集者に事情を話して休載することを頼んだ。他に休載した雑誌がもうひとつあった。自慢する訳ではないが、私はこれまで締め切りに遅れたことがなかった。だから休載は本当に悔しかった。がんばれば何とかできそうにも思えたが、何しろ気力が湧かないのではどうしようもない。執筆は心身ともに健康でなければできないものと、つくづく思った。
休載を了解して貰い、ほっと安堵したが、今度は、いつ再開できるのだろうかと、いらぬ考えが頭をもたげるので困った。何もしなくても小説の構想はいつも考えていた。
「狼達の庭」は奉行所に関わる様々な人々を登場させるつもりだったので、いつもより長いものになりそうな気がしていた。できれば二年ほど続ける予定だった。
しかし、二年どころか、二話を書いたばかりで休載してしまったので、単行本にする六本を並べることも難しく思われた。たとえて言うなら、私の前に岩の壁が突如現れ、頂きは見えるのに登ることができない。一歩が踏み出せない。そんな感じだった。
体調はその日によって変化した。ああ、もう駄目だと意気消沈する日もあれば、朝から家事をすいすいとこなし、この調子なら当分大丈夫だと思える日もあった。それは今でも変わっていない。講演会や引き受けている新人賞の選考会などで出かけなければならない時があると、健康保険証を携帯し、容態が変化した時はその土地にある日赤に放り込んで貰おうと身構えている。出かける前には神棚に、どうぞ無事に帰って来られますようにと祈る。最後は神頼みである。
今まで不測の事態にならなかったのは幸いだったが、この先がどうなるかはわからない。
治療が功を奏して、徐々に体力が戻ると、私は休載中の小説の執筆を始めた。しかし、再開しますと断言する自信がなかったので、とり敢えず、単行本にするまでの数が揃ったところで編集者に連絡しようと思った。
長々と奉行所の機構を書き連ねる余裕はなかったので、最初に登場した奉行所付き中間の為吉の物語に変更することにした。大店(おおだな)の息子であった為吉が両親を失い、叔母に引き取られて成長したが、最後は岡っ引きの娘と結婚して、ようやく幸せを得るということにした。途中、為吉が登場しない話も何本かあるが、それはまあ、サイド・ストーリーとしてお読みいただければよろしいかと思う。
『為吉 北町奉行所ものがたり』は作者の予定変更による作品でもある。そういう意味で私にとっても感慨深いものになった。読者の皆さんも昨日は人の身、明日はわが身、と胆に銘じて、毎日お過ごし下さいますように。
※本エッセイは月刊ジェイ・ノベル2015年9月号掲載記事を転載したものです。