11月の新刊『緑と赤』刊行に寄せて
ヘイトスピーチに遭ったそのときに…… 深沢 潮
私がヘイトスピーチを撒き散らす差別扇動団体のデモに遭遇したのは、二〇一三年二月のことだった。K-POPアイドルのグッズを買おう、サムギョプサルを食べようということで友人と新大久保に行ったのだ。
寒さはそれほど厳しくなく、休日というのもあって街は多くの人で賑わっていた。私たちは豚の三枚肉をたんまりと食べたあと、K-POPのミュージックビデオが流れるカフェに入った。カフェは大久保通り沿いに面した建物の二階で、おもに若い女性客でかなり混んでいたが、幸い窓際が一席空いていた。
ミュージックビデオを観ながらアイドルの品評をしていると、外が騒がしくなっていることに気づく。「なになに?」と隣の席の二十歳前後の二人連れが、興味津々に立ち上がる。私たちも席を立ち、窓から通りを見下ろした。店の客のほとんどが、なにごとかと窓に近寄ってくる。
日の丸や旭日旗(きょくじつき)を掲げたデモ隊の先頭が、警察に守られて通り過ぎていくところだった。その周りをさらに多くの人々が取り囲んでいる。デモ隊がスピーカーで喚(わめ)く言葉はガラス窓越しにも聞こえてきた。彼らの持つプラカードの文言も目に入る。
韓国、在日コリアンを罵倒する言葉の暴力。むき出しの憎悪。
「なにあれ」隣の二人はさっと顔色が変わり、ふたたび席に座る。ほかの客も、我々も、それぞれの席に戻った。
友人の顔から表情がいっさいなくなった。何も言わない。おもむろに携帯を取り出して、いじり始める。心にシャッターを降ろす、という表現がふさわしかった。
店内を見回すと、突然のことに唖然(あぜん)としたり、戸惑ったりしている人が多かった。「ほんとやだ」「サイテー」と怒りを顕(あらわ)にしている三人連れもいるが、その場にいた多くの人たちが言葉を失い、重苦しい空気が支配していた。店員の韓国人青年は、表情の読み取れない顔になっている。
在日家族の悲喜交々(ひきこもごも)を描いたデビュー作『ハンサラン 愛する人びと』を刊行したばかりだった私は、この光景をしっかりと目に焼き付け、いつか必ず物語として残そうと心に決めた。それは強い使命感でもなければ崇高な義憤でもなかった。ただ描くことが自然なことのように思えたのだ。この瞬間この場所に、小説家である私がいたのだから。
「緑と赤」とは、韓国と日本のパスポートの色である。在日四世の女子大生の知英、K-POP好きな知英の友達の梓、新大久保のカフェで働く韓国人留学生のジュンミン、差別扇動デモ団体へのカウンターに情熱を傾ける中年女性良美、ソウルに留学中で日本に帰化した龍平、五人の視点で物語は進んでいく。
ヘイトスピーチに遭ったとき、人はどんな思いを抱くのか。探っていくうちに、国とはなんだろうという問いに何度もぶつかった。国を好きになること、嫌ってしまうこと。国家と国民をくくっていいのか。国家間の関係が悪ければ人と人との関係もうまくいかないのか。
この閉塞した空気の中で、それらの問いに真正面から向き合うことが、物語を紡ぐ私のできることだと信じてこの小説を描いた。正直言って辛かった。取材を通じて目にする現実に打ちのめされ、精神的に不安定になった時期もあった。そんななか、家族や友人、担当編集者、取材先の人ら、たくさんの人びとに励まされ、慰めてもらったことに、心から感謝している。彼らの存在がなければとうてい書き上げられなかった。ひとつの形として、小説として、「いまこの状況」を残すことができたことに、胸をなでおろしている。
ヘイトスピーチの是非を論じることは多くされていても、それによって傷つけられた生身の人間の姿に寄り添うことは見過ごされていると強く感じる。被害実態の調査も圧倒的に足りない。この物語が、世間の持つ「ヘイトスピーチ」に対する記号的な解釈からこぼれ落ちるものを、少しでも掬(すく)うことができればと思う。
「何人(なにじん)だとかカンケーねーから」作中で同級生の佐藤が龍平にかけた言葉が私は好きだ。属性ではなく、その人が生きてただそこにいることを尊びたい、慈しみたい、そんな祈りを込めて、この小説を世に送り出そうと思う。
ひとりでも多くの方が『緑と赤』を手に取り、悩み苦しみながらも光を信じて生きていく彼らに会いに行ってくれればと願っている。
※本エッセイは月刊ジェイ・ノベル2015年12月号掲載記事を転載したものです。