8月の文庫新刊『蘭学探偵 岩永淳庵』によせて
物語誕生のヒミツ 平谷美樹
【蘭学探偵 岩永淳庵】は、ジェイ・ノベルに不定期連載した作品をまとめたものです。文庫本化にあたって、書き下ろしの短編を一本加えました。
一作目の【高櫓と鉄鍋】は、「理系の時代小説を」という依頼で執筆したものです。
主要キャラクターの蘭学者岩永淳庵、辰巳芸者の豆吉、火付盗賊改方同心瀬川又右衛門は、すぐに“降って”来ました。
よく作家は“降って来る”という表現をしますが、それはけして神秘的な出来事ではなく、無意識の中で色々な処理をした結果であるとわたしは考えています。
わたしはたいてい「意外な物の結びつき」を基本として物語を組み立てています。歴史・時代小説の場合は、歴史的な出来事と意外な物を結びつけることが多いです。そういう作業をやっていますと、頭の中に色々な情報を処理し結びつける“回路”のようなものが出来上がってきます。新しい情報を放り込んでやれば、今まで蓄積してきた情報に加えてシャッフルし“回路”が勝手に面白い組み合わせを見つけてくれます。
もちろん、完璧な形で降って来ることは希で、たいていは基本的なアイディア程度ですから、後から肉付けすることになります。
ここからのお話は、いかにして【蘭学探偵】が生まれたかの裏話になりますから、そういうものを艶消しとお考えの方は、先を読まれませんように。
淳庵たち主要キャラクターが降って来たその時の無意識の動きを推理しますと、おそらくこうだと思います。
わたしは江戸物の小説では「頭が切れて腕っ節も強い」という主人公を書いてきましたが、それとは別のテイストの人物を書いてみたいと思っていたフシがあります。そこで、頭はいいが腕っ節の方はからっきしで、いささかだらしない淳庵が誕生しました。
そういう主人公ならば、腕っ節の強く、尻を叩いてくれる相棒が必要。それが女性であればなお面白い。そこで男勝りの辰巳芸者豆吉姐さんが生まれました。
この二人は、わたしの大好きなテレビ版【御家人斬九郎】の松平残九郎と蔦吉の関係性に影響を受けていると思われます。
事件を解決するに当たって、公的な機関に所属する人物が一人いた方が、何かと都合がいい。【高櫓と鉄鍋】は、富士山に旅をすることを想定していましたから、江戸市中だけを管轄とする町奉行所では困る。ならば犯罪人を追って諸国に出張ることの可能な火盗改にしよう――。
そのようにして、わたしの頭に三人のキャラクターが降って来ました。後は時代背景などを調べつつ肉付けして行ったわけです。
ではストーリーはどうか?
わたしは“回路”に「淳庵が生きた時代に存在し得る科学技術に注意せよ」という命令を出しています。すると、読んでいる本や視聴しているテレビ番組の中に「これぞ」というものが登場すれば、閃くような感覚が降って来ます。それで「これ、使えるじゃない」となるわけです。
もちろん、わたしは降って来たキャラクターやストーリーばかりを用いているわけではありません。
【高櫓と鉄鍋】に登場する基本的な原理はわたしたちの時代になってから登場した仮説ですが、陰謀に使われる技術は淳庵の時代にあったものです。現代の技術をいかにして淳庵の時代に再現するかということを考えてストーリーを組み立てることもあります。
そして、【蘭学探偵 岩永淳庵】の最終話には、意図的にある人物を投入しました。
淳庵たちの前に立ちはだかる巨大な敵の存在をにおわせることによって、淳庵の物語をこれからも書き続けたいというアピールをした助平根性であります。