アイヌを書く
馳 星周 『神(カムイ)の涙』連載開始記念インタビュー
作家デビュー20周年を迎える
馳星周さんの勢いが止まらない。
犬を題材にした小説は新たなファンを掴み、
痛快コメディ・ノワールと謳った作品は
笑えるエンタメとして話題を集めた。
さまざまな物語にトライし、高い評価を得ているいま、
新たに選んだテーマが「アイヌ」だ。
「小説を書くことが楽しい」と語る
馳さんに、現在の心境を聞いた。
写真・構成/編集部
取材協力/マウンテンハードウェア
(株式会社コロンビアスポーツウェアジャパン)
本とパンクロック
――本はいつから読んでいたのですか?
馳:小学生の時から……いや、もっと小さな時からだね。好きもクソもない、自分に必要なものだった。
――どんな作品を?
馳:図書館にある「少年探偵団」や「ドリトル先生」。その後は星新一さん。子どもの頃は病弱で、本が友だちって言ったらおかしいけど……。
――漫画や映画はどうでしたか。
馳:もちろん漫画も読んでいたよ。『ジャンプ』『サンデー』『マガジン』『チャンピオン』。少女漫画もね。映画もよく見た。ただ一番好きだったのは小説。
――パンクロックを聴くそうですね。
馳:いまでも好きだし、自分のことをパンクロッカーだと思っている。
――キッカケは何ですか?
馳:中学校の友だちで医者の息子がいて、そいつが家族旅行でイギリスに行き、いま一番流行っているやつだと言って買ってきたのがセックス・ピストルズ。それからパンクしか聞かなくなった。いまも、70年代から80年代前半にかけて好きだった曲をCDやYouTubeで聴く。
――東京へ行きたいと思ったのもその頃ですか?
馳:中学生くらいから、大学は絶対東京へ行くって考えていた。広い世界に行きたかったというより、とにかく北海道が嫌だった。なんにもないから。
――つまらない?
馳:気が狂いそうだった。一応、俺が通っていた高校は進学校で、できるヤツは札幌の北大(北海道大学)へ行くんだけれど、札幌行ってどうすんだよと感じていた。田舎に残るヤツらが、信じられなかった。札幌にも大きな書店があったけど、新刊しか置いてない。神保町に憧れていたね。
40を越えて
――再び故郷・北海道に興味を抱いたのはなぜですか? 今回の新連載も含め、近年、北海道を舞台にした作品が多いですよね。
馳:軽井沢に移住したことが大きいね。それと写真をはじめたこと。
――若い頃、そんな気持ちはなかった。
馳:20代の時は新宿オンリー、歌舞伎町オンリー。普通の人以上に濃く遊んでいたからね。
――その後は、取材で世界各地を巡る。そして軽井沢へ。どこかで到達感のようなものがあったのですか。
馳:20代、30代、40代と、価値観が変わってくるんだ。根っこは変わらないけれど。到達感というよりも、犬のために軽井沢へ行った時、もう東京はいいかなと思う自分がいた。
――どこかで充分やりきったという思いがあるのですね。
馳:ある。いまも東京へ行って夜遊びするのは楽しいけれど、昔はそれを毎日やっていた。でも、毎日はもういいやって。
――軽井沢に移住して、最初から自然に興味をもったのですか?
馳:違うね、最初は写真。軽井沢で犬の写真を撮っていると、どうしても犬と一緒に風景を撮ることが多くなる。そんな時に、自然を意識するようになった。
――犬の背景として、いいなって感じたのですね。
馳:山登りをはじめたのも、結局は写真を撮りたいから。初心者のうちは、春夏秋しか行けないけれど、一番きれいなのは冬山だとわかっていた。だから、一番寒い時に冬山に行けるようになりたいと思って登り続けた。日々とにかく登って体力をつけて、技術をつけてやるしかない。最初は標高差250メートルの山でも吐きそうになった。そりゃそうだよ、一八歳からずっと酒浸りの生活だったから。それをさ、いきなり40を過ぎて山を登ったのだから、しんどかったよー。
――自然を好きになるなんて、思っていましたか?
馳:まったく。自然は嫌いだった。
撮影時に愛用するのはマウンテンハードウェア。趣味の登山の際はもちろん、冬季の北海道でも暖かく、快適。
アイヌと北海道
――新連載でアイヌをテーマにしたのはなぜですか?
馳:北海道で生まれ育った人間として、一度はきちんとアイヌと向き合ったほうがいいなと。小学生の頃とかクラスに普通にいたのよ、アイヌの子が。
――北海道同様、馳さんの作品には沖縄を舞台にした本も多いですね。
馳:沖縄と北海道は、非日本的なところが濃いからだと思う。現在の日本を基準にすると非日本的なのだけれど、おそらく原点がある。昔の日本では、近所で助け合って生きるのが普通だった。簡単に言えば、本州ではもはや消えてしまったものが残っている。沖縄と北海道は、非日本的なところが濃いからだと思う。現在の日本を基準にすると非日本的なのだけれど、おそらく原点がある。昔の日本では、近所で助け合って生きるのが普通だった。簡単に言えば、本州ではもはや消えてしまったものが残っている。
――いい意味でおおらか。
馳:北海道では助け合わないと、寒さで人が死んでしまう。上京した時に一番びっくりしたのが、ホームレス。北海道じゃありえない。札幌の地下街にはいるけどね。都会の人たちはね、本当の田舎を知らないと思う。田舎には、おじいさんやおばあさんなど、買物難民と呼ばれる人がたくさんいる。車を運転して、遠くのスーパーへ行けない人たちが……。近くにコンビニもないし、ガソリンスタンドもない。
――若い世代は田舎の姿を想像すらできなくなってきたのかもしれませんね。
馳:都市圏や都市近郊しか知らない人が多くなってきている。俺だって偉そうなことは言えない。軽井沢に行って、長野のローカルニュースを見ていなかったら知らなかったことは多い。
小説を書くこと
――馳さんは小説で読者に何かを伝えたいと思っていますか。
馳:本当に申し訳ないけど、読者のことを考えて小説を書いたことはない。
――ないのですか?
馳:ないよ……なんていうのかな、小説を書くこと自体が目的だから。書いてどうしたいなんて思ったことがないし、事実、どうにもならない。小説で世界は変わらないから。
――なるほど。
馳:それは多分、絵描きでもそうだと思う。この絵を描いたことで何かをしたいとか思っていない。絵を描くこと自体が目的。アイヌの木彫り作家も羆(ひぐま)を彫ることが目的だから……。
ロングドライブの途中で立ち寄ったアイヌのカフェ。
――取材で出合った木彫りの作品は圧巻でした。
馳:たとえば、ノンフィクション作家やドキュメンタリー番組の製作者は、これをやって世界を変えたいという思いがあるかもしれない。でも、基本的にアーティストとか創作する人は、わがままで傲慢な人間だから……。何かを変えるなど、考えていないと思う。
――馳さんはエンタメ作家ですか?
馳:エンタメ作家です。だから、読みはじめたら三、四時間は浮世の憂さを忘れられる作品をと思って書いている。
――小説を書く時、プロットを立てますか。
馳:立てない。立てたのは『不夜城』だけ。時間が腐るほどあったから。
――小説って誰かに習うものですか?
馳:習わない。習うっていうのであれば、自分がいままで読んできた小説すべてから習っている。とにかく、過去の名作をいっぱい読んだほうが勉強になると思うよ。
*
取材で北海道を訪れたのは2月。馳さんの希望で、極寒の時期を選んだ。予想通り、前が見えないようなホワイトアウトの中、コンビニもガソリンスタンドもない真っ直ぐな道を車でただひたすら走った。旅の目的は、道東の真冬を感じることと、アイヌの人々に出会うこと。それはどちらも達成できた。
多くを語らないが、馳さんの北海道、アイヌに対する思いは熱く、深い。繊細なテーマと向き合いながらも、読んで面白いエンターテインメント作品へと昇華させてくれるはずだ。
新連載に注目してほしい。
※本インタビューは月刊ジェイ・ノベル2016年1月号掲載記事を転載したものです。
はせ・せいしゅうく
1965年北海道生まれ。横浜市立大学卒業。編集者、フリーライターを経て、96年、『不夜城』で小説家デビュー。97年、同作品で第18回吉川英治文学新人賞、98年には『鎮魂歌――不夜城Ⅱ』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞を受賞。近年はノワール小説だけに留まらず、さまざまなジャンルの作品を執筆、高い評価を得る。近著に『雪炎』『アンタッチャブル』『陽だまりの天使たち ソウルメイトⅡ』がある。