6月の文庫新刊『不死症(アンデッド)』刊行に寄せて
事実は『不死症』より奇なり? 周木 律
拙著『不死症 アンデッド』、六月に無事刊行と相成りました。ありがとうございます。周木律です。
本作、タイトルから・装画から・あらすじからおわかりのとおり、ゾンビ的なものが出てくるタイプの物語です。これってそういう話かな? と思われた方、ご安心ください。まさにそういう話です。期待は裏切りません。
一方、古くからお馴染みの読者の方は「なんだこれは」と憤られるかもしれません。誠にすみません。何ぶん飽きっぽい上に気が多く、特定のジャンルの物語だけを書き続けられないのです。この点、あらかじめ陳謝申し上げます。
また、新しく手に取られた読者の方は、「周木律とはこういう話ばかり書くのか」と思われるかもしれません。が、決してそんなことはありません。僕は他にもさまざまな物語を書いています。ですので、これを機会にどうか、そちらの方も試してみてください。
さて、前置きはこのくらいにしまして ――。
この物語を書くに当たって、ひとつ、とにかく苦労したことがありました。
それは、タイトルです。
すなわち「不死症」。そこに「アンデッド」とルビを振る。
このタイトルに至るまで、ともすれば執筆そのものより悩みました。
当初は、シンプルな「アンデッド」というタイトルだったのですが、「そこまで洋風の物語(?)でもないかな」と、「不死鬼」に変更、ところが今度は、いやいやそこまで和風の物語でもないぞと悩み始め ――結果、さまざまな単語を模索する中で生まれたのが、辞書には載っていない「不死症」という言葉だったわけです。
物語の内容を端的に、かつ、うまく表現する言葉はないものか。担当の編集者さんと、喫茶店でああでもないこうでもないと考えたことが思い出されます。
そのお陰か、不死の病というのともちょっと異なるニュアンスを持つ造語としての「不死症」――なかなかいいタイトルが生まれたと、自分では満足しているのですが、如何でしょうか。
ところで、唐突ですが、人はなぜ死ぬのだと思いますか。
僕は、その答えを知りません。僕に限らず、わかる人は誰もいないでしょう。でもこれは、誰もが一度は持ったことがある疑問でもあるはずです。
僕も子供のころ、「人間はどうして死ぬの? 死んだらどうなるの?」と、眠れない夜を過ごしたものです。
今でこそ、それは生物の多様性を確保するための戦略なのだろうと理解しています。自身のDNAを後世に伝えるためには、単一のDNAがいつまでも生きながらえるより、DNAが他のDNAと混濁し多様性を持った子孫を残していくほうが、環境の変化に対する柔軟性が確保され、結果としてDNAの伝達率が担保される。かくして進化論に則(のっと)り、「死ぬ」ことはより優位な性質として、生き残ってきたわけです。
とはいえ、「だからあなたは死ぬんですよ」と言われたところで、感情的に納得できるはずもありません。
このように考えると、「死」という現象は、単に科学的理解を行えば足りるものではなく、情緒的な側面からの分析、加えて宗教的な解釈も不可欠なものだといえるでしょう。
ただ、いずれにせよ、僕は、あなたは、人は、いや、生きとし生けるものはすべて、いつか必ず「死」を迎える。これは決して逃れえない、世界の摂理なのです――。
――と、ごく最近までそう思っていたのですが。
先日、なんとも奇妙な生物の話を耳にしました。
ある種のクラゲは、幼生と成体との行ったり来たりを繰り返しながら、決して死なないのだそうです。
つまり、この世には不死の生物が存在する。
うーむ、世の中にはまだまだ不思議なことがあるものです。
まさに事実は小説より奇なり――。
あ、もちろん、拙著『不死症』も、それなりに「奇」に書いたつもりですので、どうかこの機会に、その「奇」をお楽しみいただけましたら幸いです。
※本エッセイは月刊ジェイ・ノベル2016年7月号掲載記事を転載したものです。