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わたしのすみか
第4回 すみかを探して  冲方 丁

私が「すみか」という言葉から連想するのは、旅の仮の宿というものに近いような気がします。というのも、エンジニアだった父の仕事の都合で、幼い頃からしょっちゅう住み処が変わってきたからです。海外生活も、シンガポールとネパールの二つの国で経験しました。小学校だけで六回も転校したものですから、ずっと、どこかに住むというより、滞在するという感覚でいました。以前はあそこの家、今はこの家、きっとすぐにまた家が変わる。小学校三年生のときには、そういう生活観念がすっかり定着していたものです。

四年以上、同じ街で居住するということを初めて体験したのは、中学二年生の夏、父が癌で亡くなってのちのこと。母と子ども二人で、父が遺した埼玉の家に住み、初めて「庭の柿の木に実がなる」といったことを経験しました。それまでは木がまともに育つほど、長く住んだためしがなかったのです。

以来、私は、二つの感覚の間を、行ったり来たりするようになりました。

居住と、滞在です。

このうち居住という行いは、絶対的で、永続的です。

居心地のよい住み方をしようとすると、誰でも独自の様式を築くことになります。よそと比べず、経済的価値も関係がない。どこの誰がなんと言おうと、自分にとって居心地がよいことが大事で、しかもその生活がじきに失われる、などということを考えずに住まう。

これに対し、滞在という行いは、相対的で、一時的です。

その場その場の様式に従い、常により良い条件を求めて移動し、どうしても経済的な価値がつきまとう。いずれ住み処を手放すとき、どれほど価値が保たれたかが問題になるからです。

私の場合、滞在の感覚がひときわ強かったため、あとから居住の感覚が現れ、大いに戸惑うこととなりました。ひと頃など、居住するという行いに、抵抗感すら抱いたものです。より広い世界への興味が失われ、今あるものが失われるという想像力が減退し、現実を見て見ぬ振りをする生活になってしまうのではないか。そんな不安すら抱きました。

その不安が消えたのは、いつの頃だったか、滞在も一時的なものばかりではないと知るようになったことがきっかけでした。

ある思い出深い瞬間は、その後も私の心にとどまる。仮初めのものを、永久なるものと感じる豊かさが、人の感性を育ててくれる。そう気づいて初めて、二つのことがらを楽しいと感じるようになりました。

一箇所での生活と、旅行です。

多くの方々にとって普通のことでしょうが、私にとっては長らく、どちらも楽しむべきものではありませんでした。

滞在の感覚が強いと、未知の場所へ赴くのは挑戦です。その土地のルールを把握し、安全を確保し、可能な限り心身や財産の消耗を防ぐ。楽しむ前にすべきことが山のようにある。

しかし旅行者は、未知を真っ先に楽しみます。かねて聞く噂通りか確かめ、そうか否かにかかわらず思い出ととらえる。疲れ切るまでうろつき、散財し、いろいろな記憶を抱いて、住み処に戻る。

四十路に入り、やっとできるようになったことが、住むということ、そして旅行に出かけるということ。特にどんな場所に住みたいという気持ちはまだありませんが、少なくとも、今住んでいる場所を精一杯、居心地の良い場所にしよう、そしてその安心感を支えに、いろいろな場所を旅しよう、という思いがあります。そしてそうした思いの底では、幾多の滞在を経て獲得した、「ああ、生きるって大変だけど、やっぱり楽しい」という実感が、強く根ざしてくれているのを感じます。






うぶかた・とう
1977年、岐阜県各務原市生まれ。4歳から9歳までシンガポール、10歳から14歳までネパールで過ごす。96年、早稲田大学在学中に『黒い季節』で角川スニーカー大賞金賞を受賞し小説家デビュー。小説のみならず漫画の原作、ゲームの脚本など、メディアを限定せず幅広く活動を展開する。2003年『マルドゥック・スクランブル』で日本SF大賞、10年に『天地明察』で本屋大賞、大学読書人大賞、吉川英治文学新人賞、北東文芸賞、舟橋聖一文学賞の五冠達成。12年『光圀伝』で山田風太郎賞受賞。他の著書に『十二人の死にたい子どもたち』『破蕾』『麒麟児』『剣樹抄』など。