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私の○○ベスト3
Vol.40 坂上泉 僕の記憶に残る五感体験ベスト3


1位 揺り動かされた自我
2位 たった一駅の二人きり
3位 空気が声で「盛り上がる」



昔、文章の師匠の一人に「自分の見たもの、感じたもの、その場にいた者でしか伝えられないことを文章でどこまで表現できて伝えられるかが大事だ」と教わった。本を1冊書いてみて、改めて、文字情報で読者を五感で没入させることがいかに難しいか、痛感させられた。今の僕は、かつて感じた五感体験を、その限界の中でどこまで読者に届けられるか、知りたくなった。

■3位 空気が声で「盛り上がる」

 大学時代、ロケットの打ち上げを見に、東京から鹿児島の内之浦に訪れた。8月の快晴で、海に面した砂浜は夏の陽気に熱せられ、ロケット好きの数百人の観客がカウントダウンし、熱気は最高潮に達した。しかし……時間を過ぎても打ち上がらない。広がる騒(ざわ)めき。誰かがスマホを見て「中止?」と呟き出す。それでも一縷の望みを抱いていた中で、非情にも響き渡る、打ち上げ中止のアナウンス。
 その瞬間、「ええええー!」と、数百人が叫んだ声で、空気が「盛り上がった」ように、僕の全身を包んだ。それは決して嬉しい一体感ではなかったが、妙に心地よかった。


■2位 たった一駅の二人きり

 高校時代、好きだった女の子がいた。大学受験前の3年の冬、僕と彼女はどちらも追加の自習を受け、遅い時間の鈍行電車に乗る仲だった。同じ電車には同じく残った友人が複数おり、集まって勉強していたが、ある駅を過ぎてから一駅、彼女の降りる駅まで、二人きりになることが時折あった。橙色と濃緑色の古びた国鉄型車両の、窓から冷気が込み上げる、連結近くのボックスシート。僕と彼女は向かい合った席で、他愛ない話をして、そして駅に着くと、降りる彼女を見送った。
 彼女にきちんと誠実に好意を伝えることも、そして色々なことに気づくことにも、結果としては遅かったのだけど、あの冬の小さなボックスシートの空間は、今も心のどこかで、あの田舎の線路の上を走っているような気がする。


■1位 揺り動かされた自我

 あの朝、僕は4歳で、クマの人形を抱いて、家族4人で寝ていた。兵庫県三田市の、歩けばすぐそこが神戸市北区、そんなニュータウンで。
 突然、地響きと共に、揺りかごを右から左に揺らしたような大きな揺れが、小さな僕を起こした。両親が驚いて叫んだ。1歳だった妹は泣いたかも知れないが、記憶にない。ただ僕は、小さな体を翻弄される中で、クマの人形をぎゅっと抱きしめた。
 1995年1月17日、阪神大震災が発生した朝。僕の周囲では幸いにして犠牲になった人はいなかった。ただ、それまで揺りかごの中で微睡(まどろ)んでいた僕の自我は、あの朝、ハッキリと揺り動かされ、現在に続く自我が目覚めた。






坂上泉(さかがみ・いずみ)
1990年、兵庫県生まれ。東京都在住。東京大学文学部日本史学研究室で近代史を専攻。2019年、『へぼ侍』(「明治大阪へぼ侍 西南戦役遊撃壮兵実記」を改題)で第26回松本清張賞を受賞。同作がデビュー作となる。